トルコのカッパドキアで新潟大学の女子大生が殺されました。痛ましいことです。
翌10日、事件を耳にした人々の呼びかけで追悼行事が行われ、現地に数百人が集まったそうです(NHKの報道では約1000人)。
「皆様の悲しみは、私たちの悲しみです」という横断幕を先頭に、たくさんの人々が日の丸を掲げ、事件現場までデモ行進します。
手書きのプラカードを持つ人も大勢いて、
「ごめんなさい」
「トルコは まいくりはらを 忘れません」
「申し訳ありません」
「トルコ日本の友好は永遠にありますように」
「ごめんなさい」
・・・。字があまりにも稚拙だったり文法的におかしかったりで、きっと一生懸命、調べながら書いたものなのでしょう。
事件現場には大量の花輪や花束がささげられ、そこでも大きなプラカードが掲げられます。
「とても悲しいです。ご冥福を祈ります」
2月にグアムで起こった無差別殺傷事件の際も、事件現場にはたくさんの花やロウソクが捧げられました。しかしここまで痛切に哀悼が示されたことはなかったと思います。
トルコはそういう国なのです。一口に親日国と言いますが、日本に対してほとんど片思いのような感情を抱いているのです。それはひとつには、130年も昔の「エルトゥールル事件」のためです。
(これについては2年ほど前に紹介しましたが、改めて書きます)
1890年6月、トルコの軍船エルトゥールル号は初の使節団を乗せ、横浜港に入港しました。三ヵ月のあいだ両国の友好を深めたあと、エルトゥールル号は日本を離れたのですが、帰路、台風に遭い和歌山県の串本沖で沈没してしまいます。
この遭難では乗組員600人近くが死亡しましたが約70人が助かりました。大島の島民が助けたのです。
通信機関も救助機関もない離島のことで、救助は至難を極めたようです。怒涛をかいくぐって瀕死の船乗りを引き上げると、村民は人肌で遭難者を温め、精魂の限りを尽くして助けたといいます。さらに非常事態に備えて貯えていた甘藷や鶏などの食糧の一切を提供し、彼らの生命の回復に努力しました。そして二十日後、寄せられた多額の義捐金とともに、遭難者たちは日本の軍艦でトルコに帰還します。
この話はトルコの歴史の教科書にも載っていて知らない人はいないといいます。もちろんその後も、トルコと関係を持った多くの日本人たちが繰り返し良い印象を支え続けたからなのでしょう、トルコの人々は過剰なまでに高く日本を評価してくれています。
1985年3月17日、イラン・イラク戦争さなか、イラクのサダム・フセインは「今から48時間後、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす」と世界に発信しました。このとき諸般の事情により、日本政府はイラクに救援機を送ることができませんでした。
その代わりにテヘラン空港に残された215人の邦人を救いに行ったのがトルコ航空の2機の救援機だったのです。2機が避難民を乗せて成田に向かったのはタイムリミットのわずか1時間15分前のことです。トルコ国内では、100年前の返礼として当然のことだという世論があったようです。
2011年10月のトルコ地震の際は、東日本大震災の日本人を見習おうと、歯を食いしばって頑張りました。当時の産経新聞には次のような記事があります。
千人を超す被災者がテント生活を送る競技場では、食料配給を求める人々が整然と列をつくっていた。割り込む人はおらず、妊婦に先を譲る姿も。物資が不足しているとされる被災地のワンでも商店で略奪などは発生していない
先日、2020年のオリンピックが東京に決まったとき、真っ先に握手を求めてきたのはトルコのエルドアン首相でした。その夜、ネット上には東京開催を祝福するトルコ人の書き込みが相次ぎ、日本のネット住民を驚かせるとともに感動もさせました。
それらすべては私たちの先人のおかげなのです。そうした伝統を忘れてはいけませんし、私たちと私たちの教え子で、今後も引き継いでいかなくてはならないことなのです。