カイト・カフェ

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「弱者絶対の末の弱者敗退」~声は出さなくてはいけないが、声の大きさは現実を反映しない③

 メディアは世界を単純化する。
 世の中には弱者と強者しかなく、弱者は支えられ、強者は叩かれるべきだ。
 しかしその姿勢が結局、
 長い目で見れば弱者を敗戦へと導くことになる。

という話。

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(写真:フォトAC)
 
 

【結局被害を被るのは子ども】

「地毛証明」「ツーブロック禁止」といった本来は大したことのない、しかし学校にとっては必要なジュースに、「スカートをまくり上げての下着検査」だの「生まれつきの赤毛も強制的に黒染めに」といったおぞましい泥水を混ぜて、「さあ、飲めるものなら飲んでみろ」と目の前に突き出す。「いや、さすがに飲めない」と答えると丸ごと地面に捨ててしまった――。
 それが現在起こっていることです。そして近未来に起こることは、流行の髪型やファッションに身を固めた子どもたちの一部が、学校で見せびらかすのに飽き足らず街に出て行くというシナリオです。

 もちろん非行に走ったりする子は稀ですが、週に一回繁華街で友だちと過ごす1時間、毎朝髪を整えるために使う20分、そうしたものの積み重ねは、学業の視点から考えると大きな損失となります。同じ時間を英単語を覚えることに使っている同世代もいるからです。
 言うまでもなく“不勉強な子はツーブロックを禁止したり着るものを押さえつけたりしても勉強しない”というのは一面の真実です。しかし学校で話す話題がファッションや遊びから就活だの進学だのにちょっと移るだけでも、一年365日の積み重ねでずいぶん違ってきます。

 常に成績と進路のことしか考えていないエリート校では問題とならないことですが、底辺校とか指導困難校と呼ばれる学校の先生たちは気が気ではないでしょう。今回マスコミや世論に押されて文科省が出した通達によって、学校はファッションに関する指導の手足を縛られてしまいました。その不利益は、結局、高校三年間を勉強ではなく遊びに使いたがっていた子どもたちが背負うことになるからです。
 
 

【生徒という弱者が教師という権力者を凌いだ事件】

 一般社会でも通らない「髪も服装も自由しましょう」という話が、なぜすんなり通ってしまったかと言うと、問題が弱者救済の視点から考えられたからです。

 今回の報道を見ても分かるように、マスメディアは学校の師弟関係を一貫して支配=被支配の構図で描いてきました。ニュース解説で「学校において教師は絶対的権力者です」などと平気で言う人はいくらでもいます。
 当の学校では教師たちが、「絶対権力者のオレの言うこと、生徒は誰も聞かねぇんだけどなぁ」とぼやき、実際に生徒から激しく挑発を受けて翻弄される場面はいくらでもあるのに、メディアとメディアによってつくられた世論はそんな事実は認めません。

 学校では教師が君臨して子どもたちを押さえつけている――そんな視点から見ると、今回のできごとは“子どもたちがマスコミの力を借りて学校から勝ち取った輝かしい自由の物語”ということになります。戦利品はツーブロックと色物の下着と言うチンケなものですが、勝利したこと自体に意味があるのでしょう。

 福祉社会を標榜する民主主義社会では、弱者救済は重要な視点です。したがって民主主義の守護神であるマスメディアは、何かの事象に対してまず弱者の視点に立ってものごとを考え、判断し、報道しようとします。それは当然なのですが、取材の過程でそれが弱者の恐喝だったり、弱者もまた変わらなくてはならい、強くならなければならない、耐えてもらわねばならないといった問題だといった事実が現れてきたら、メディアも立場を移動させるべきです。ところが実際には、ジョン・F・ケネディのように国民に血や汗を要求するところはほとんどありません。

 メディアにとって、子どもは教育され鍛えられるべき存在ではなく、どんな場合も保護され支えられるべき存在なのです。
 
 

 【被害者絶対ではいじめは解決しない】

 “弱者”を固定化し、弱者を絶対とする考え方は校内にいくらでもあります。
 例えば文科省のいじめの定義は、現在でこそ妥当なもの()ですが平成18年から25年までは、次のような添え書きがありました。
 個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
 つまり客観的事実より被害者の主観的事実を優先しろということです。これでは公平な指導はできません。

 またメディアはしばしば「被害者にも落ち度があるなどということは絶対にない、100%、悪いのは加害者である」などという言い方をしますが、通り魔事件でもあるまいし、人間関係に0対100ということはめったにないはずです(もちろん、たまにはそういうこともある)。
 弱者絶対あるいは弱者最優先の指導は硬直化します。加害者にだって言い分のある場合もあります(「だって昨日までいじめていたのはアイツの方だよ」等)、それを聞かずに指導しても加害者を反省に導くこともできませんし、題は解決しません。結局、訴えた側の権利は回復しなかったり単に距離を置く関係になったりして終わりです。
 
 

【いじめられたと先に言ったら勝ち】

 もっともいじめ問題における弱者絶対は歴史も長くなりましたから、「言ったもの勝ち」の仕組みに慣れ切った子どもも少なくありません。通常の人間関係トラブルも「イジメられた」と言えば大人が解決してくれるのです。
 教師の方も、「イジメ問題」がこじれると厄介ですから、昔のように静観するという態度をとることはなくなりました。おかげで子どもたちは「感情を素直に出さない」とか「強者におもねる」とか「大事なことは秘匿する」とか、あるいは「一つ譲歩させるためにあらかじめ三つ差し出しておく」とかいった――ひとことで言えば「ドラえもん」のスネ夫がもっているような手練手管を学び損ねています。
 私は子どものころ、まさにスネ夫でしたからよくわかります。それこそ昭和の人間関係スキルなのですが、これがけっこう役に立つのです。


いじめ防止対策推進法の施行に伴い、平成25年度から以下のとおり定義されている。「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。「いじめ」の中には、犯罪行為として取り扱われるべきと認められ、早期に警察に相談することが重要なものや、児童生徒の生命、身体又は財産に重大な被害が生じるような、直ちに警察に通報することが必要なものが含まれる。これらについては、教育的な配慮や被害者の意向への配慮のうえで、早期に警察に相談・通報の上、警察と連携した対応を取ることが必要である。
文科省「いじめの定義の変遷」より)
 
(この稿、続く)