カイト・カフェ

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「昭和の忘年会と文化の終焉」~#忘年会スルーに始まって

 「#忘年会スルー」が話題となって、忘年会の見直しが始まる様子。
 しかしすでに、昭和の忘年会文化は消えつつある。
 合理からすればなくなって当然の会だが、
 その役割は、ほんとうに終わってしまったのだろうか。

という話。f:id:kite-cafe:20191224072518j:plain(「銀山温泉の夜景(山形県尾花沢市)」PhotoACより)

【#忘年会スルー】

 いよいよ明日は終業式。

 “まだ”のところも“すでに”のところもあると思いますが、全国的には26日から冬休みというところが多いようです(特に根拠なし)。

 2学期終業式といえば忘年会、と昔の人間は考えます。しかし今月は「#忘年会スルー」が話題となったとかで、若者を中心に見直しの機運も高まっているようです。
 それはそうでしょう。日ごろは付き合いのない上司と好きでもない酒を飲むのに数千円も払い、その上で長々と説教されたのではたまりません。若い女性だって、いつどんなふうにオジサンにイエローカードを出すか、身構えながら飲む酒がうまいはずもない。

 一方オジサンたちからすれば、日ごろ腹を割って話すことのない若者の話も聞いてみたい、若い女子社員と合コンみたいな雰囲気も味わいたい、と手ぐすねを引いて待っているのですが、いざ話が始まってみるとなぜかいつも説教臭くなってしまい、自分ながら“これでは嫌がられるのも無理はない”――と分かっていてもうまく話ができない、そんなところかもしれません。
 かくいう私も “もっと面白い話はできないのか”と常に反省しながら、それを生かせないままサラリーマン生活を終えてしまいました。

 忘年会を忌避する若者の気持ちは、みんなが分かっています。
 忌避されて寂しい思いをし、「忘年会は出るのが当たり前だ」などとブツブツ呟いているオジサンたちだってかつては若者で、忘れているのかもしれませんが、彼らこそ昭和の忘年会を壊した人たち、まさに“#忘年会スルー”の先駆者なのです。

 【昭和の忘年会】

 昭和の忘年会といえば企業人も公務員も、旅館を貸し切りにして一晩中騒いだものです。
 今でも老舗旅館に行くと何のためかと思わせるようなとんでもなく広い大広間があったりしますが、あれはみんな企業や官公庁がどんちゃん騒ぎ(この言葉自体が昭和!)をするためのものなのです。
 もちろん数人の企業では貸し切りとはなりませんから、実際に大広間を使ったのはある程度以上の組織だけでしたが、“昭和”のイメージとしてはそうなります。

 特に民間企業の場合、会社の補助が莫大で、個人の持ち出しは些少。そうなると“忘年会スルー”自体が損ですから参加者も当然多くなります。
 本田技研はその昔、京都に8000人の社員を集めて大宴会をやったといいますが、参加が義務だったというより、“参加が得”な時代でした。その“得”に誘われて行ってみると、これが結構楽しかったりするのです。

 今も企業風土として忘年会を続けている会社の中には、新入社員の出し物が伝統になっているところもあるようです。お店選びや予約、当日の司会も新入社員にやらせて企画力や協働性を見る――そういうことなのかもしれませんが、かつての“出し物”は新人に限られたものではありません。

 部あるいは各課ごとに毎年出し物を出さなければならないところもあって、それは大変で面白かったと聞いています。
 それこそが“昭和”で、まったくスマートではない。泥臭く、ウザい世界でもあります。

【学校の忘年会】

 学校の忘年会もかつてはそうでした。
 学校には「学年会」という相当に自立性の高い下部組織があって、それが出し物の基礎単位となります。例えば中学校なら1学年から3学年までの3チーム、それに校長・教頭、学年に属さない事務の先生や校務員の先生が「4学年」という臨時の学年組織をつくって4チームで競うわけです。

 特に数寄者の主任がいる学年などは12月に入ると毎日「学年会」で、密かに芝居の練習などをしています。
 「女系図(おんなけいず)」の「別れろ切れろは芸者のときにいう言葉。今のあちきには『死ね』と言っておくんなまし」とか「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の「今月今夜のこの月を、俺の涙で曇らせて見せる」とかはみんなこのとき覚えたセリフです。

 昭和歌謡に必ず出てくる「お富さん」は歌舞伎の「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」を演歌にしたものですが、通称「お富・与三郎」「切られ与三」と呼ばれるこのお芝居の、「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさお富、久しぶりだなあ」は、私の場合、忘年会がなければ一生触れることのないものでした。

 名誉のために言っておきますが、これらの演目は私が教員になった30数年前でも相当に古いもので、教師たちは教養としてそれをやっていたのです。まだ教員が文化人の影を引きずっていて、教養を磨くだけの余裕のあった時代の話です。

【忘年会文化の終焉】

 こうした忘年会文化は昭和の終焉、バブルの崩壊とともに終わってしまいました。
 資金のなくなった企業は忘年会への補助を出し渋るようになり、全額自腹となると不参加者も増えてきます。そしてなにより、収益が悪く会社が倒産するかもしれないという状況で、旅館を借り切って飲んでもさっぱり盛り上がらなかったのでしょう。気がつくと旅館で泊りがけの忘年会をするのは教員を含む公務員だけ、といった時代になっていました。

 もちろん公務員が金持ちで脳天気だったからではありません。税金で賄われる組織として、地域の旅館・ホテル・料理屋さんを下支えする使命があったのです。直接そういった圧力を受けたわけではありませんが(市役所などではあったのかな?)、地域を守るという意識は、特に中堅以上の先生方にありました。

 地域が衰退すると子どもたちの環境も悪くなります。教員が落とす資金など大したものではありませんが、ないよりはマシだとそんなふうに思っていたのかもしれません。

 学年の出し物がなくなったのはバブル崩壊とは関係なく、やはり教員の多忙化が原因です。平成に入ると、とてもではありませんが練習などしている暇はなくなったのです。
 経験の浅い若い先生たちがまず悲鳴を上げます。引き出しの多いベテラン教師と異なり、通知票ひとつとっても短い期間に完成させるのは大変なのです。

 この時期に学校で「もう学年の出し物はやめましょう」と提案した若い先生たち、そして企業では「もう、泊りがけの忘年会とかは勘弁してください」と身を引いた新人たち、彼らが今、40代~50代として“#忘年会スルー”に遭っているのです。

 確かに「酒がつくった友情は、酒のように一夜で醒める」と言います。合理的な考え方をすれば忘年会などなくても構わないでしょう。特に最近はセクシャル・ハラスメントやパワー・ハラスメントの危険もありますから、忘年会は危うい場とも言えます。

 やめ時かもしれませんね、寂しいですが。