カイト・カフェ

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「教師の素人芝居が理解できた時代」~昔の教師は教養人の端くれでありたがった①

 いよいよ冬休みまであと三日だが、
 大昔、この時期になると妙に忙しい教員集団がいた。
 忘年会の出し物の練習をしていたのだ。
 それほど余裕があったとも、文化的渇望が強かったとも言えるのだが。
 という話。(写真:フォトAC)

【東京都練馬区の冬休みの謎は深い】 

 いよいよ日本中の小中学校の大部分が今週いっぱいで授業終了。24日の土曜日から冬休みに入ります。
 ちなみに24日・25日は土日ですから冬休みでなくても休日。また長期休業最終日の1月9日(月)はハッピーマンデー制度による成人の日でそこまで3連休です。この前後の5日間の休日を“冬休み”と考えるかどうかは自治体によって違っているようなのです。

 例えば小学館のサイトによると、
 大阪府豊中市の冬休みは12月24日(土)~1月9日(月)までの17日間。それに対して
 広島県広島市の冬休みは12月26日(月)~1月7日(金)までの12日間。でもこのふたつの冬休みは実際には同じです。それなのになぜ言い方が違ってくるのか、そのあたり、聞いてみたい気がします。
 さらに東京都練馬区の「冬休みは12月26日(月)~1月7日(土)まで」(区のサイトで確認済み)。頭の中に疑問符が点灯してしまいます。休みの始まりと終わりとで土日の扱いが違うのはなぜか? 東京都では第二土曜日に午前授業があることは知っていましたが、第一土曜日の1月7日も登校日にしておいて、その上での休日にするということなのでしょうか、それとも8日の日曜日も9日成人の日も授業日になっているでしょうか? なかなか謎の深いところです。

【巨漢主任の果てしない学年会】

 タイトルからは話が逸れてしまいました。今年の登校日は今日も入れてあと三日という話でした。
 私にはこの時期になると決まって思い出す1人の先生がいます。いまから40年近くも前にご一緒した私より20歳近く年配の先生で、瞬間最大体重3ケタを超えたという巨漢です。甘いものが大好きで、学校帰りにコンビニで補充しないと家までもたない、そんな人ですから退職後、早くに亡くなったという記憶があります。
 その先生が主任をする学年が、毎年この時期になると連日会合を重ね、学年室からまったく出て来なくなるのです。赴任したばかりの年は不審に思って、「何かあったのですか?」と訊くとニヤニヤしながら、
「いいよなT先生の学年は平和で。オレんところなんて生徒指導がきつくて、連日対策会議だよ。ホント、大変、大変」
とか言って誤魔化します。しかし中で何が行われていたかは、2学期終業式の夜、すぐに明らかになります。
 忘年会で出し物にする芝居の稽古だったのです。

【昭和素人芝居の世界】

 つい先日もこのブログで、
ハムレットの「生きるべきか、死すべきか・・・」と同じように、誰でも知っている有名なセリフというのがかつての日本にもいくつかありました。そのうちのひとつが徳富蘆花の「不如帰」一節、「あああ、人間は何故死ぬのでしょう」です』
と書いたばかりですが、他にも、
「赤城の山も今宵限り」(「国定忠治」)
とか、
「月は晴れても心は闇だ」「別れろ切れろは芸者の時に云う言葉。今の私にゃ死ねと、死ねと云って下さいまし」(『婦系図(おんなけいず)』)
とか、
「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れて参ろう」(「月形半平太」)
とか。あるいは、
「ご新造さんへ、おかみさんへ、お富さんへ。いやさお富、久しぶりだなあ」(「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」)
とか、
「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜限りだ。(中略)来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったならば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」(『金色夜叉』)
とか――。

 こうした有名なセリフには必ず本編を簡単にまとめた寸劇がつくられていて、おそらく昔はあちこちで素人たちによって演じられていたのでしょう。それをかの巨漢教師が、学校の忘年会に持ち込んだのです。

【教師が普通の人になっていく日々】

 問題にしたいのは40年くらい前だと、こうしたセリフが有名な芝居の一部だと、教員世界では誰もが知っていて素人芝居が楽しめたということです。寸劇は本編についてある程度知識があることを前提に簡略化されていますから、何も知らないとわけが分かりません。
 しかしこれは厳密に言って「昔の教師は教養があった」という話ではありません。強いて言えば「文化的だった昭和前期の伝統を、昭和の最後に時期にもまだ引きずっていた」ということです。
 
 少なくとも昭和30年代くらいまで、教職はエリートの就くべき仕事でした。特に田舎では大学出が就職できる場所は学校と役場くらいしかなかったのです。そしてエリートが集まれば自然とそこに文化的競争が始まり、教師たちは少しでも文化的な匂いのするものを身に纏おうと努力し始めます。最新の教育法だとか文学的潮流だとか、社会運動だとか最先端科学だとか、そういったものです。そうした文化的雰囲気の形骸が、昭和の終盤から平成初頭にかけてもかろうじて残っていて、忘年会の出し物として私たちの目に触れることができたのです。
 
 教員による素人芝居というものを見たのは巨漢教師と一緒に過ごした5年間だけで、あとはどこに異動になってもそれらしいものとは出会いませんでした。平成になると年を重ねるごとに教師の目線は子ども高さまで低くなり、妙なエリート臭もなくなった代わりに、見栄で教養を集めあるいは見せびらかしたりということもなくなりました。
 教師が高い位置に立つことは嫌われ、「教師だって同じ人間だ」「同じ人間として」と、どんどん“普通の人”になることが求められたのです。もっとも教員側から見れば、そうした要請に応えたのではなく、多忙によって教養を手に入れる機会が奪われただけなのですが――。
(この稿、続く)