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「教員のアカデミズムの終焉」~昔の教師は教養人の端くれでありたがった②

 昭和の教師たちには自ら作り上げたさまざまな研修機会があった。
 読み合わせ、職員文集、同好会、忘年会の寸劇・・・。
 しかしそれも平成の声を聞くと瞬く間に消えていってしまった。
 仕事に仕事が被さり何もできなくなったのだ。これでいいのか?
 という話。(写真:フォトAC)

【教員のアカデミズム】 

 昭和30年代くらいまで、教職はエリートの就く仕事で、それだけに文化的志向は強く教養のレベルも高かった、昭和最晩年であってもその遺風は残っていた、というお話をしました。代表的なひとつが忘年会の出し物として提供された寸劇です。もしかしたら明治時代から連綿と続き、戦後は三島由紀夫五木寛之も出演したという「文士劇」を意識したのかもしれません。

 学校における「教員のアカデミズム」と言っていいような動きは校内のいたる所にありました。そのひとつは「読み合わせ」です。職員で一冊の本を決めて1年がかりで読み切ろうというもので、一カ月に一度、割り当てられた当番は簡単なレジュメを作成して問題を提起し、話し合いをしたのです。しかし取り上げた題材が今から考えるとあまりにも時代に合わない高尚なものばかりで、「正法眼蔵入門」だの「正法眼蔵随聞記」だの「善の研究」だのと、かなり大変でした。

 明治・大正――昭和も初期くらいの職員室では大いに議論になったのでしょうが、平成も迫るバブルの真っ最中では、なかなか理解の手が届くものではありません。しかし「難しいからやめましょう」と言えないのは、「聖戦」を「負けそうだからやめましょう」と言えないのと同じで、みんなで頭を抱えながらかなりの期間続けてきたのです。
 
 平成に入って、他の研修や教育内容のために職員会議ですら毎週取れなくなって、ようやく読み合わせもなくなりました。なくなって惜しいものでもありませんが、取り上げる書籍を変え、やり方を変えれば、あれもなかなか良い研修になったのかもしれません。


【職員文集】

 職員文集については以前も何回か書いています。(例えば、2008-10-02「ガリ版印刷の頃」~今よりはるかに余裕があったような気が・・・
 その昔はガリ版刷りの手作りだったようですが私が教員になったころにはオフセット印刷でやってもらえるようになっていました。原稿は冬休みの宿題で明けると係が集めて整理し、印刷屋に出してくれます。3月の離任式に間に合うよう製本して手元に届きます。
 ただしこれも平成3~5年ごろ、負担が大きすぎるという理由で廃止するところが相次ぎました。そのまま道徳の教材になりそうなすばらしい文章がいくらでもありましたから、ほんとうにもったいなかったのですが仕方ありません。楽しんで続けるほどの余裕はもうなかったからです。

【同好会】

 同好会は教員の部活動みたいなものです。書道・絵画・手芸・合唱・バレーボール・ソフトボール等々。
 ただし私が教員になったころにはこれもだいぶ形骸化していて、書道や絵画は文化祭の「職員展」作品制作のため、ソフトボールやバレーボールは学校対抗の懇親スポーツのためといった感じで、どこか趣味や自己研鑽とは遠い感じがありました。
 
 もっとも職員展や懇親スポーツがあっただけ今より余裕があったわけですし、そのころでも新しい同好会を作ろうという動きがなかったわけではありません。昨日お話しした巨漢教諭も事務職の女性に「いっしょにダイエット同好会をつくらんかい?」と持ち掛けてずいぶん怒られていたりしました。現在だったらセクハラ一発退場でしょうね。
 私は演劇鑑賞同好会をつくって自ら会長に収まりました。二か月に一度、市民劇場に会費を納入してあとは自由に観てもらうというゆるい会でしたが、あまり会員も増えませんでした。やがて私自身の異動によって置き去りにすることになりましたが、赴任先の新しい学校には同好会というものはなく、以後それのある学校に行ったことがありませんから同じ時期になくなったのでしょう。

【教員のアカデミズムの終焉】

 総じて教員のアカデミズムは昭和の末までは存在し、平成の声を聞くとともにひとつひとつ消えていったという印象があります。気がつくと先生たちの中には新聞さえ取らない人が増えてテレビのニュースも見ている様子がない。度重なる日教組批判の中で組合活動がグンと低調になると、職員室で政治的な話が聞こえることもほとんどなくなりました。
 それまで新規採用の先生たちは校内のさまざまな研修機会や、各教科の自主的研究会で自己研鑽するのが常でしたが、初任者研修の充実と言いますか過剰のため、かえって目の前の研修から遠くなってしまいました。この人たちが参加できないことで、学校のアカデミズムの継承者がいなくなったもの同然なのです。しかしこれでいいのでしょうか。

 教師が自らの好奇心や知的虚栄心のために学ぶことをやめてしまったら、単なる知識の転写装置になってしまいます。子どもたちは遊びの中から学ぶと言いますが大人だって同じなのです。
「静や静、静のおだまき繰り返し」――昔が今になればいいとは思いません。なにしろ教員のやらなくてはならない仕事は昔の比でないのです。とてもではありませんが同じようにというわけにはいかないのですから、これは単なる愚痴です。