カイト・カフェ

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「家庭訪問で持ち帰るもの、置いてくるもの」~家庭訪問をやめてはいけない2

 家庭訪問をなくすなんてとんでもないことだ
 担任する児童生徒の家庭から持ち帰るものはたくさんある
 それは全部 教育にとって必要なものだ
 そして保護者のもとに置いてくるべきものもある
 それも とても大切なものが

という話。

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【情報は多いほどいい】

 スリランカで大規模な同時多発テロが起こったというニュースを見ている最中、現地の救急車のフロントガラスの上部5分の1ほど、およびフロントバンパーの上にかかれているambulance(救急車、傷病者輸送機など)の表記が鏡文字になっていることに気づきました。
 今どき写真の裏焼きかなと思ったのですが、背後のホテルのエンブレムは正しい並びに――そこで調べてみると、日本でも名古屋市消防局を始めとするいくつかの消防署で、フロントの「救急」を鏡文字にしているところがあるようです。
 なぜか。

 救急車などは緊急時にサイレンを鳴らし、赤色灯(正式には「警光燈」)をガンガン回しながら走ってきますが、人は気づかないときはほんとうに気づかない。カーステレオを鳴らし看板の派手な街の中を走っていると背後から迫る緊急車を見逃してしまうらしいのです。そんな場合も何とか気づいてほしい――鏡文字の「救急」はそうした場合の一助らしいのです。

 そこまでしなくてもいいような気もしますが、ルームミラーやドアミラーに映った背後の白い車の文字が普通に読めてしまう(鏡文字になっていない)違和感にハッと我に返り、慌てて道を譲る人が千人にひとりだったとしても、その千人にひとりのために鏡文字にしておくことは価値があると考えたらしいのです。

「救急」が鏡文字だからといって普通に正面から読む人に問題が発生するわけでもありません。塗料代だって変わりません。だったら千人にひとりのためにそうしておいても損はない、そういうことでしょう。

 同様に、教師にとって児童生徒に関する情報は多ければ多いほどいいのです。
 保護者に書いていただいた家庭環境調査票や小学校から送られてきた指導要録のコピーがばっちり記憶できている教師ならそれで十分かもしれませんが、私のように記憶力に難のある教師はそれこそ総動員で、個々の子どもの情報を体にしみ込ませておかなくてはなりません。

 家庭訪問はその絶好の機会です。
 文字情報だけでなく映像として保護者の様子・家の様子・その他諸々の情報を頭と心に叩き込んでおく、耳からも鼻からもさまざまな情報を入れておく、それは私のような普通以下の教師だけでなく、優秀な教師にとっても有益なことではないでしょうか。
 家庭訪問をなくしてはならないと考える理由の一つがそれです。

 では私たちは家庭訪問から何を持ち帰るべきなのでしょう?

 

【家庭訪問から持ち帰るもの】

 家庭訪問で嗅ぎ取って記憶に留めておくべきもの、それを箇条書きするのはむしろ矮小化することになりますが、「雰囲気を持ち帰れ」では何のことか分からないので一応書いておきます。

 ひとつはその家庭の経済的豊かさです。
 もし貧困の香りがし、就学援助や生活保護を受けていないようなら、いざという時には声をかけられるよう準備しておかなくてはなりません。世の中には資格があるにもかかわらず頑張って受給しない家庭は意外と多いものです。
 中学生の場合は3年生になった時に安易に私立高校を勧められませんから、その点も留意しておかなくてはなりません。

 記憶に留めるべき第二の点は、部屋の片づけ具合・整理の状況です。
 もちろん担任教師が来るからには一通り片付け、掃除も済ませてあるのが普通でしょう。それできれいになる家は問題ないのです。けれど来客がある程度のことでは絶対に片付かない家もあるのです。ゴミ屋敷に近い家です。それはそれで心に留めておかなくてはなりません。

 保護者に何らかの依存症の気配があるのかもしれませんし、子育ても含めて物事をマメに丁寧に行おうという気持ちの全くない家なのかもしれません。
 あるいは逆に、仕事と子育てをしすぎるほどするために、アップアップで部屋の片付けまで手の回らない家庭なのかもしれません。

 またゴミ屋敷とは逆に、これで生活できているのかと呆れるほど生活感のない家もあります。外食とコンビニ弁当だけで生きている家はそんなふうになりがちです。
 部屋はかたづいてむしろがらんとしているくらいなのに、饐えた匂いの消せない家というのもあります。さまざまな事情があってのことでしょうが心の隅に留めます。
 場合によっては年度当初から支援の手を差し伸べた方がいいこともあれば、何か起こってから動いても遅くないこともあります。その答えが家庭訪問当日に出せるかどうかは別にしても、学年の教師間、養護教諭、管理職と相談して心の準備をしてもらった方がいい場合もあります。

 特に留意すべきは虐待です。
 確率的には千にひとつもないのかもしれませんが、心に留めてそうした観点から児童生徒を観察するのとそうでないのとでは結果はまったく違ったものになってしまいます。

 弟や妹が極端に手のかかる家庭というのがあります。担任訪問の際中も跳んだり跳ねたりして親も会話どころではないといった雰囲気で怒ってばかりです。
 そういう乱雑な中でその子は勉強し成長しているということを頭に入れて帰ります。もちろん“だからかわいそう”ということもあれば、“だからこんなに立派なんだ”ということもあります。

 おとなしすぎる弟や妹がいたら、それもよく見てきます。とてもよく躾のできた子どもという場合もありますが単に怯えて静かにしているだけかもしれません。担任している子、つまりその子のお兄ちゃんお姉ちゃんたちの性格と対照すると、別に分かってくることもあります。

 学区の地域性にもよりますが、ほとんどの家庭はこれといった印象を持つことなく家を出ることができます。まったく問題がなく、理想的とも思える家だって少なくありません。その場合はそうしたものとして記憶に留めます。

 特にきちんとした、あるいはごく普通の家庭のお子さんが学校で突然、教師に向かって「馬鹿野郎」とか「ふざけるな!」とか悪態をついたら、それこそもう救急車が30台も駆けつけていいほどの緊急事態ですから授業をすぐに止め、全員を自習にしてでも対応しなくてはなりません。それも精神のトリアージです。
 ちょっとひねくれたお子さんが騒ぐのとはレベルが違うのです。

 以上、――しかしこうして書き並べてみると、やはり家庭訪問で手に入るものの10分の1も記述できなかったような気がします。

 

【家庭訪問で置いてくるもの】

 せっかく子どもの自宅まで赴くのです。それに担任する子どもの家に上がり込むなんてそれが最初で最後かもしれません。だったら単に持ち帰るだけでなく、置き土産もしておくといいでしょう。
 土産ですから相手が喜ぶものでなくてはなりません。

 保護者が担任からもらって一番うれしいもの――それは言うまでもなく「お宅のお子さんを大事に思っています、一生懸命支えます、けっして嫌な思いはさせません」というサインです。
 家庭訪問でなくても教室でできることですが、相手の懐に飛び込み、相手の土俵でそれを伝えることには特別な意味があります。こちらから出向いてお話ししているわけですから、呼びつけて学校で行う面談とは意味が違うのです。

 私たちはそれを「信頼関係を築く」と言って、学校教育の中でも最も大切な柱のひとつと信じてきました。

 先生たちが忙しいからやめましょうとか、保護者に仕事を休んでもらうのは忍びないからやめましょうといった安易な話にならないのはそのためです。

 この件については、明日、改めてお話ししましょう。

                        (この稿、続く)