カイト・カフェ

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「天井を見て歩くようになったK君のこと」~大口病院点滴中毒死事件の判決で考えたこと③

 かつて担任した生徒の中に精神の病気を発症した子がいた。
 ある程度、注意しながら見ていたが、決定的な瞬間を見のがした。
 もっと早く気づいてやればよかったのに、
 ところが、その子は私を責めるどころか、感謝しているのだ。 
という話。 

f:id:kite-cafe:20211112070312j:plain(写真:フォトAC)

【無口でおとなしく、いつもニコニコしている子】

 K君は30年以上前に私が中学校1年生から3年生まで担任した男の子です。
 大柄で無口で、勉強も運動もそこそこでしたが、いつもニコニコしているような子です。いまで言う「いじられキャラ」。周囲には常に誰かこうかいて、いろいろ話したり遊んだりしているようでした。
 「いじられキャラ」ですから担任は当然意識します。いついじめに発展するか分からないからです。ただイジリの部分がなくなってしまうと、その子の立ち位置がどうなるかサッパリ想像がつかず、行き過ぎたら介入しようという気持ちで、それとなく観察しながら2年半が過ぎました。問題らしい問題は起きませんでした。
 
 教師、特に中学校の教師というのは因業な仕事で、難しい子どもが数人いると、生徒指導面で他の子どもはすぐに放ったらかしになってしまいます。難しい子たちはよく「先生は頭のいい子ばかり可愛がって・・・」などと言いますが冗談じゃあありません。良い子・頭のいい子とは人間関係がいいのでぞんざいに扱っているだけで、気持ちのかけ方も真剣さも、そして時間も、「困った子・心配しなくてはいけない子」にかける量はハンパではありません(お前たちこそ俺に可愛がられている・・・)。
 その「困った子・心配しなくてはならない子」の枠に、K君は入ってくることはありませんでした。

【天井を見て歩くようになったK君】

 中学校3年の夏休みが明け、しばらくして異変に気づきます。K君が仲間からはずれて、教室で独りぼっちなのです。2~3日様子を見て、それでも変化がないので親しい仲間のひとりを呼んで訊くと、
「そうなんだよね。K君、最近ちっとも話してくれないんだ」
 友人関係になにか特別なことがあったわけでもなさそうです。そこで今度は本人を呼んで話を聞くのですが、その内容が何ともはかばかしくない。薄くニコニコしながら、
 別に何もありません。うまく行っています。みんなとは話しています。困ったことはありません。
 どこにも切り口がないのでその日は帰し、作戦を練り直そうとしていた矢先、教務主任があわただしく私の教室に駆けこんできました。
「T先生、T先生! K君どうしちゃったんだい。天井を見ながら歩いているじゃないか!」

【人はめったに空を見ない】

 翌朝、養護教諭にも来ていただき、しばらく観察することにしました。確かにボーっと天井を見るように歩いています。
 通常、私たちの視線は正面よりやや下に向かっているものです。地上には危険がいっぱいあるからです。むかし住んでいた街を久しぶりに訪れたらすっかり変わっているように見えるのも、実は日常生活で高い位置まで見回すことがなかったから、という場合が少なくありません。ひとは足元を見ずに歩くことは、めったにないのです。

 慌てて相談室に連れて行き前日の続きをするのですが、はかばかしくないのも前日と同じ。少し込み入った質問をすると、また薄く笑ったまま困っています。そのあと養護教諭にも代わってもらい、結局、学校では手に負えない、という結論になりました。なんとも情けないことです。
 その日の内に保護者に連絡し、夕方から家庭訪問をしたのですが、親もまったく異変に気づいていませんでした。

【病院に連れて行った】

 一週間後、私はK君と保護者と三人で養護教諭の紹介してくれた小児科の診察室にいました。小児科といっても心の問題に定評のある人です。
 まず本人と話し、母親、私の順に呼ばれて、また本人と話し、最終的に3人揃って先生の話を聞きます。
「元気のなくなる病気です」
 それが答えでした。私は重ねて訊いたのですが、医師は病名を言いたくないみたいで「元気のなくなる病気」としか教えてくれませんでした。何のことか分かりませんが、その日は薬をもらって、K君は2週間おきに診察を受けることになりました。

 天井を見て歩くといった強い症状はすぐになくなりましたが、すっかりK君は変わってしまい、物静かで孤立した感じの生徒になりました。友だちもだれもイジったりしません。どう扱ったらいいのか分からいのは、私も友だちも同じでした。ただ幸い学校生活は維持できて、進学する高校も残っていました。
 そして私は何をするということもなく、K君を卒業させてしまったのです。

 卒業式の日、すべてを終えて生徒と保護者を送り出したあと、私は子どもたちからもらった手紙をひとつひとつ読み始めました。感謝の言葉や思い出のいっぱい詰まった手紙です。その何通目かにK君のものがありました。
「先生、ぼくを病院へ連れて行ってくれてありがとうございました」

 思わず嗚咽が漏れ、私は声を上げて激しく泣きました。
 K君を思って病院に連れて行ったのではありません。始末に困って連れて行ったようなものです。それを感謝されるなんて――。

【その後】

 K君たちを卒業させたあと、私も学校を出て数十キロ離れた地元の学校に赴任し、K君たちとは会うこともなくなりました。薄情なようですが、教師は卒業させた生徒と滅多にかかわり合わないものです。次に担任する児童生徒に精一杯で、気にする余裕がないのです。
 再びK君たちのクラスの子に会ったのは、卒業から5年後のことです。その町では成人式に旧担任を呼ぶ習慣があり、私にも声がかかったのです。

 K君は来ませんでした。
 昔から情報通で成人式の幹事もやっていた女の子に訊くと、
「よくわからないけど、市内の福祉施設に通っているみたい。2年くらい前にお母さんと一緒に歩いているのを見ただけです」
 もちろん家庭訪問で家は知っているので、そのあと訪ねても良かったのですが私は行きませんでした。行ったところで何のアドバイスも慰めもできないからです。いまさら早く気づいてやれなかったことを詫びても仕方ありません。
 K君のその後については、今も知りません。

【心の問題に、もっと詳しくあるべきだった】

 旧大口病院で40名以上も殺してしまった元看護婦は、K君以上に大人のセーフティネットから漏れてしまいました。K君の異変に早く気づくことのできなかった私が言うべきことではありませんが、誰か見守るひとはいなかったのかとこだわるのはそのためです。
 心の問題にも、もっと詳しくあるべきでした。

 (この稿、終了)