カイト・カフェ

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「心のサイン発生装置と精神のトリアージ」~家庭訪問をやめてはいけない1

 教師の働き方改革や授業時数確保の観点から
 家庭訪問を廃止したり希望制にしたりする学校が出てきたという
 自宅の位置や通学路の様子などはインターネットで十分わかるし
 たかだか15分~20分で実りある話もできないから
 というのが理由だそうだが
 それはとんでもないことだ

というお話。

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【岐路に立つ家庭訪問】

 日曜日のインターネットニュースに「家庭訪問”岐路”に 授業増で時間確保や教師の働き方改革で 『やめる』『希望制』も」(2019.04.21 丹波新聞)というのがありました。

headlines.yahoo.co.jp

 それによると、
 小中学校の教師が児童生徒の家に出向いて懇談する「家庭訪問」を見直す動きが広がりつつある。兵庫県丹波市篠山市の全小、中学校計48校に取材した結果、丹波市内の2校が今年度から「やめる」と回答。また、一斉訪問をやめ、家庭からの「希望制」に切り替える、あるいは切り替えた学校は両市であった。背景にあるのは来年度の学習指導要領改訂に伴って増えた授業時間数を確保することや、教職員の「働き方改革」の一環があるよう。ほかにも次年度以降、実施を検討する学校もある一方、「今後も必要」とする学校もある。長年、”当たり前”のように続いてきた家庭訪問が岐路に立っている。
ということです。

 やめた理由としては、

  1. 今はインターネットの地図で自宅がわかるようになった。また、緊急時には保護者の携帯電話に連絡して迎えに来てもらうのが一般的。
  2. 人数が多いクラスを受け持つと、1日で10数軒を回ることになり、”分刻み”のスケジュールに追われながらこなすことになる。
  3. 労力がかかる一方、各家庭では短い滞在時間でじっくり話を聞くことができないなどの課題がある
  4. わずかな時間のために、保護者に仕事を休んでもらうことになり、負担をかける
  5. 教員の業務を見直して、子どもたちと向き合う時間を確保するのが第一

等々のようですが、要するにポピュリズムです。

 記事の最後の方にあるように、
 ベネッセ教育情報サイトが13年に2335人から回答を得たアンケートでは、「家庭訪問をしてほしいか」という問いに否定的な回答が70・6%を占めた。
という現状があり、他にも、
「10分ほどの訪問のために仕事を休まないといけない。話す内容も他愛のないこと。先生も大変だと思うのでやめたほうがお互い良いのではと思う」
「『自宅を見に行く』ことはプライベートの領域に踏み込むことになる」
「家に来てほしくない保護者や児童もいる。保護者と懇談する場所は学校でもいい」
といった訴えや考え方があります。

 しかし保護者や世間の要望があるからと言ってむやみに応えて、必要なことを放棄してはいけません。教師の負担軽減という錦の御旗を担いで保護者におもねるやりかたは、卑怯でもあります。

 

【家庭訪問縮小の本筋は学校の事情ではない】

 そもそも記事の最初の方で、
 家庭訪問は、△担任と保護者の顔合わせ△自宅の場所の確認△通学路の確認△家庭の状況を把握する―などを目的に実施されてきた。
と書いて、インターネットや通信手段の発達によって自宅や通学路の確認は必要なくなり、短時間では十分な話もできないと意義の薄れてきた事情を説明しておきながら、肝心の家庭の状況を把握するという目的についてはひとことの説明も代案もないのはなぜでしょう。

 もともと家庭状況の把握以外の理由なんて大したものではなく、実際には一日に何軒も回らなければならない家庭訪問をきちんと果たそうとすれば、初めての担任は休日に下見するくらいはあたりまえでした。自宅の場所や通学路の確認などはその時点で済んでいたのです。
 保護者が「話す内容も他愛のないこと」というのも当たり前で、年度当初から深刻な話があちこちで出るようでは困りものです。もし仮に深刻な話があるとしても、それを定例の家庭訪問の15分か20分でやっつけようというなら、保護者も担任もあまりにも愚かでいい加減だと言えます。重要な話は日と場所と時間を選んでするものです。

 要するに位置確認、通学路確認、顔合わせという意味では最初から重要ではなかった家庭訪問を、これまでなぜ行ってきたのか――それこそ家庭の状況目で把握するためであって、他にはなかったのです。

 家の中に入り込んで他愛ない話をしながら、その家庭の雰囲気を吸い込んでくる。建物の様子、玄関の様子、部屋の雰囲気、匂い。教師をもてなす態度、テーブルの上に並ぶもの、清掃の具合。
 家にいるときの子どもの服装、態度、兄弟姉妹の様子、調度品や掲示物、空気の淀み。
 一つひとつを分析的にとらえてくるのではありません。感じ取ってくるわけです。

 何のために?
 もちろん担任をしている子の、健やかな成長のためです。

 そして子どものために努力することが結局、自分たちの仕事を楽にすると知っているからです。

 

【心のサイン発生装置と精神のトリアージ

 教育や子育てについてよく「子どものサインを見逃がすな」と言う言葉が使われ、教育評論家などはすぐにそういう言い方をしますが、その実“サイン”の見方について説明してくれる人はほとんどいません、実際にはかなり厄介だというのに。

 なぜ厄介なのか。
 サインの読み取りが難しいのには二つの理由があります。ひとつは子どもたちから出てくるサインが多すぎること、そしてもうひとつはほんとうに深刻なサインは手遅れになったころに出てくるからです。

 実際、教室というのは30人もの子どもが一斉にサインを出しているような場所で、玉石混交、どうでもいいサインから深刻なものまでいつでも常に点滅しています。
「腹、減ったよー」から始まって、「勉強が分からなくなってるよー」「頭が痛いよー」「好きな子にコクりたいよ」「お腹痛い」「何かもモヤモヤしている」「意地悪されています!」「親が離婚しそうです」「何か死にたい」・・・。

 そうした全部に対応できるはずもありませんしする必要もありません。自分ひとりで、あるいは友だちの手を借りて解決しなくてはならない、それでなんとかなる問題もたくさんあります。
 しかし中には教師がすぐにも手を伸ばして、助けてあげなければならない場合もあります。そして助けてあげるためには、教師は前もってたくさんの情報を持ってすぐに反応できるようにしておかなくてはならないのです。

 それにはいくつかのやり方があります。

 ひとつはサイン発生装置をつくることです。心の問題を可視化するのです。
 例えば服装の決まりがそれで、心に乱れのある子は服装や化粧で困難を表現する場合があるので早い段階で察知できます。それを「服装の乱れは心の乱れ(だから教育者は注意深く見て、心配な場合はすぐに対応してあげなさい)」という言い方をします。対応というのは服装を直すことではありません。その奥にある心の乱れに手当てをすることです。

 もうひとつは「精神のトリアージ」、つまり緊急度の高さに応じて対応の順位付けをすることです。しかも素早く反応するためには、知識ではなく肌の感覚として危険を察知できなくてはなりません。
 家庭訪問で大きく深呼吸して雰囲気を吸い込んでくるのはそのためです。言葉にすると矮小化してしまうものをすべて感じ取ってくるわけです。

                             (この稿、続く)