カイト・カフェ

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「絵画鑑賞の喜び」①〜ダリ

 東京の国立新美術館「ダリ展」を見に行ってきました。

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 今回は娘夫婦と孫、息子、つまり勤務のある妻を除く家族全員が一緒です。
 「今回は」と書いたのは10年前、上野の森美術館で開かれた「ダリ回顧展 生誕100周年記念展示会」にも私は行っていて、いたく感動したのでどうしても息子のアキュラに見せておきたかったのです。さらに、せっかく東京まで出かけるのだからそのついでに娘のシーナのところにも寄って、孫のハーヴをかまって――とか考えていたら、たまたま振替休だった婿のエージュも行きたいとのことで一緒に来ることになりました。
 息子のアキュラは美術作品をとても丁寧に見る性質なので、一緒に歩くにはとても便利なのですがさてエージュは? と気にしていると、これも負けず劣らず丁寧な性質で付かず離れず、ちょうどいいあんばいで鑑賞できます。ただし1歳4か月のハーヴはさすがにダメで、1時間もするとじっとしていられなくなり、シーナは十分な鑑賞ができなかったようでした。

 さてその「ダリ展」ですが、さすが新美術館の企画展です、質量ともに充実していて3時間近く、たっぷり見ることができました。

 中でも「初期作品」「モダニズムの探求」と題された2室の作品は、若きダリが印象派はどうか、キュビズムはどうか、古典主義はどうかと、自分の可能性を探ってありとあらゆる技法を試している様子が見られ、またそれにも関わらず将来の“ダリ”がはっきりと見て取れる作品もあって面白いものでした。
 そして思ったのですが、ダリは印象派といってもキュビズムといっても、あるいはバロックだのロココだのといっても、すべてそれに合わせた一流の絵が描ける他人なのです。

 先に進んで「シュルレアリスム時代」や「原子力時代の芸術」といった部屋に行くと、そこには見慣れた、そしてとてつもなく優れた作品がふんだんに展開しています。  「子ども、女への壮大な記念碑」「引出しのあるミロのヴィーナス」「素早く動いている静物」「ポルト・リガトの聖母」などはダリのファンでなくても一度は見たことのある(見たような気がする)作品かと思います。

 私がどうしてもアキュラに見せておきたかったのは、モネとピカソとダリだけは本物を見ないとわからないことが多いからです。
 もちろんほかの画家も本物を見るがいいに決まっていますし、いつも思うのですが、「どうもわからない」「何がいいのか理解できない」という芸術家でも、その人の個人展で本物をで観ると必ず理解できる、好きかどうかは別にしても、その絵や画家を崇拝したり愛したりする人がいるよくわかる、とそんなふうになれるものです。しかしそれとモネやピカソやダリを見るのとではまったく意味が違います。

 ダリについていうと、米粒にまで絵を描けそうなその超絶技巧と作品自体の大きさです。
 今回の作品で言えばポスターにも使われている「奇妙なものたち」はわずか40.5 × 50.0 cmです。今回は出品されていませんが、ダリと言えば必ず引き合いに出される「記憶の固執」(「溶ける時計」とか「柔らかい時計」とも呼ばれる)は、わずか24.1cm×33.0cmしかないのです。
 そんな小さなキャンバスに、細密描写をまったく厭わない(と思われる)ダリがたっぷり事物を書き込んでいくのです。ですから画集で見ると一辺が3mも4mもありそうなほど大きな表現ができるのです。
 また、今回の出品作で最大と思われる作品「テトゥアンの大会戦」(304.0 × 396.0 cm)も、作品はバカでかいのに、部を見ると信じられないくらい細かに描き込んでいる部分があったりして、そうした細工を探して歩くだけでも楽しい絵なのです。

 コンピュータ・グラフィックがありとあらゆる描写を可能とするまで、私にとってダリは唯一の不可能な視点から不可能なものを描き出せる人だったのです。なにしろ、ダリはたった数回、絵筆の先で数ミリの点と線を重ねるだけで人間を表現できる人なのです。

 *ただし、今回非常にがっかりしたことが一つあります。それは音声ガイダンスです。
 私は大きな展覧会では必ず音声ガイダンスを借りることにしています。
 何の先入観もなく絵を観ることも大切かもしれませんが、私には十分な鑑賞眼がないので、様々に知識で補てんしながら鑑賞するのを常としてきました。
 しかし今回の「ダリ展」の音声ガイダンス。担当は竹中直人なのですが果たしてどこまで原稿があったのか――。
 なんだか好き勝手な自己の感想を交えているみたいで、すっかりうるさくなって途中から外してしまいました。
 550円、ほんとうにもったいないことをしました。そんなの初めてです。