カイト・カフェ

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「ボクは生き方を決めた」~孫のハーヴに見る4歳児の成長 3

 両親の一方または両方が突然いなくなっても
 平気でいられるのは何歳までだろう
 父親が入院したときも 母親がお産でいなくなっても
 間もなく4歳になるハーヴは平然と日常を過ごした
 そこになにがあったのか

というお話。

f:id:kite-cafe:20190612075331j:plain(エーロ・ヤルネフェルト 「画家の息子の肖像」)

 

【父親が入院中のハーヴ】

 父親が入院していあいだ、ハーヴは何も変わらない様子で普通に生活しました。
 しかし普通でない状況を普通に過ごすということは、考えてみるとむしろ異常なことです。
 池袋のプラレール博は本来なら両親とともに行くところです。

kite-cafe.hatenablog.com  私はハーヴにとって、両親と保育園の先生に次ぐナンバー6くらいの大人だと思うのですが、そのジジと一緒でも普段と変わらないというのはやはり、4歳には近いとはいえ、3歳児の認識力というのはその程度のものかもしれないとも思うのです。

 2歳のころのハーヴ、そして2歳のころのシーナやアキュラを思い出すと誘拐されて知らぬ人に育てられても、きちんとした養育さえ受けられれば問題なく成長するのは確実でしょう。

 私自身の最も幼いころの記憶は就学前の5~6歳のころのもので、かなり多くの思い出がありますから、その年齢には相当しっかりとした認識力があるはずです。誘拐されてよその家に来たというようなことがあれば、まず確実に覚えているはずです。

 では間に挟まれた3歳~4歳はどうでしょう。

 親が代わる、生活環境がガラッと変わるといった大きな変化だと、もしかしたら強い印象として残ることもあるのかもしれません。しかしハーヴを見る限り、3歳児(まもなく4歳)にとって、父親が入院する程度のことは大した問題ではないようです。
 男親なんてそんなものなのかもしれないと、少し寂しい気にもなりました。
 
 

【ハーヴ、内面を口にする】

 2回目のプラレール大会(好きな列車をもって行って遊べる公民館行事)へは電車とバスを乗り継いでかなり遠くまで出かけました。ハーヴは電車やバスで騒ぐような子ではないのできちんと前を向いて静かに座っていたのですが、やはり疲れもあったのでしょう、目的地に着く頃にはすこしトロトロと眠りかけていて、「降りるよ」と声を掛けても反応がはっきりしません。そして下を向いたまま、脈絡もなくいきなりこんなふうに言ったのです。
「お父さんが病気なの」

 私はびっくりしました。ハーヴが父親のことを気にしていたのだという驚きもありましたが、もしかしたらハーブが具体物でないこと、目の前にないこと、内面に溜まっていたことについて口にするのを、初めて見たからかもしれません。
 そこで慌てて、
「きっと大丈夫だよ」
 そう言うと、ハーヴは座席から降りながらこちらも見ずに
「そうだね、ジジもバァバもいるからね」
 そう言ってあとは眠気から覚めた爽やかな顔でバスを降りて行きました。

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 父親のエージュが思いもかけず退院できたという連絡はプラレール大会の最中にもたらされました。しかし周回コースを何十周も回って疲れ果てていた私はハーヴに伝え損なってしまい、あとで食事の際にレストランで教えてあげることになります。

 特に言葉はありませんでしたが、ハーヴはニコニコと、ほんとうに嬉しそうでした。
 
 

 【見て見ぬふりという方略】

 バスでの出来事があるまで、ハーヴが父親の入院について一切触れなかったのはその事実から目を背けていたからでしょう。

 それは意識的な我慢であって、心理学でいうところの適応機制とは異なります。
 適応機制(または防衛機制)は受け入れがたい状況、あるいは危険な状況に際して、それによる不安を軽減しようとする無意識の反応で、中でも「抑圧」と呼ばれるものは状況をあたかも“なかった”かのようにしてしまう適応機制の代表です。

 ただししそれはあくまで無意識の中で起こるものであって、容易に意識に上ってくるものではありません。いかに疲れて油断していたとはいえ、「お父さんが病気なの」と口を突いて出てくるのは、やはり意識的に目を背けていたからに違いありません。
 それで思い出したのが「マシュマロ・テスト」の実験ビデオです。

 マシュマロ・テストというのは、4歳の子どもの前にマシュマロを一個置いて、
「これから私は部屋をしばらく離れるけど、その間にこのマシュマロを食べてもいいし、食べなくてもいい。ただ私のいない間に食べてしまったらそれっきり。我慢して食べなかったら後でもう一個あげよう。そのとき二つともキミのものだよ。どうする?」
と訊くのです。ほとんどの子どもは「我慢する」を選択します。
 
 1968年にスタンフォード大学で行われたこの実験の凄さは、マシュマロを我慢できた群とできなかった群について、その後何年にもわたって追跡調査したことです。
 4歳の段階で我慢強かった子たち(およそ30%)はその後の人生においても忍耐強く、学業成績も優秀であるとされますが、今はその話ではなく、実験の中の子どもたちの様子についてお話します。

 その時のVTRが残っているのですが、部屋に残されてマシュマロの誘惑と戦う子たちの様子が実に面白いのです。マシュマロを睨みつける子、なでたり匂いをかぐことでことで食べたことにしようとする者、自分の髪を引っ張ったり机を蹴ったりして気を紛らわそうと頑張る子、そして目を塞いだり椅子を後ろ向きにして見ないようにしている子――。結論からいうと見て見ぬふりをした子たちが成功率が高かったようです。

 ハーヴは3歳ですがマシュマロ・テストを受けた子たちと同じ4歳は目の前です。恐らく知らないないうちに同じ方略に気づいたのでしょう。父親のエージュが入院している間中、事実に背を向け、耐えていたのです。
 
 

【母親が帰ってくる】

 母親の入院中のハーヴの「見て見ぬふり作戦」はさらに顕著でした。
 未明に入院した木曜日と翌金曜日は保育園に行っている時間以外は私と、土曜日は私がアキュラの引っ越しに、父親のエージュは運動会に行ってしまったために祖母に当たる私の妻と、日曜日は父親と過ごしたのですが、その間、母親についての話は一切せず、大好きなプラレールで遊んでは日常の生活を普段通りきちんと送り続けました。

 救急車に乗るという極めて異例な体験をしたので、
「救急車に乗ったんだよね、すごいね。どうだった?」
と水を向けても小さく頷くだけでほとん反応が返ってきません。お母さんに会いたいとも、お母さんはどうだともまったく言わないのです。

 翌週月曜からは再び私が当番で、朝夕のしたくや保育園への登園降園もしたのですが、ハーヴと父親、私という男だけ3人の生活にもなんの違和感も感じていないように見えました。さらに木曜日になってシーナが戻って来ても(赤ん坊はさらに一週間の入院)、何か特別な変化があったふうもなく、今度は両親が揃った上にジジもいるというやはり非日常の生活であるにもかかわらず同じように過ごしています。

 母親のいないあいだ、“いない”という事実に背を向けていたことは容易に想像できましたが、戻ってきた感激もないというのも不思議でした。

 金曜日。まだ体のしっかりしないシーナに代わって保育園に迎えに行った私は、家に戻って玄関にはいるとハーヴと一緒に大きな声で「ただいまぁ」と言います。奥からシーナが「おかえりー」と声をかけ、そのとき廊下の端に腰かけて靴を脱いでいたハーヴが下を向いたままボソッと何かを言ったのです。
「お母さん、――ありがとう」

 最初の「お母さん」と最後の「ありがとう」は聞こえたのですが中が聞き取れません。そこで「なんて言ったの?」と訊くと、それまでと同じようにボソッと、
「お家(ウチ)にいてくれて、ありがとう」
 一瞬ですが、私はなんだか泣きたい気持ちになりました。ハーヴはハーヴなりにやはり頑張っていたのです。
 
 ほとんど口に出さずとも、家族の様子を見て自分のすべきことを決めた、
『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上がる、誇り高き4歳児
の誕生です。

                    (この稿、続く)
 

 (参考)

kite-cafe.hatenablog.com