「71年目の夏に戦争について考える」①

  学校の長期休業中は書かないという原則のために12年間、終戦の日について話すことはありませんでした。しかしそうした事情も含めて、日本の学校教育において終戦記念日が夏休み中というのは不幸なことです。現場教師をしていた時期の私も、そしていま現場にいる先生たちも、テレビや新聞の終戦記念日特集と連結すればかなりの授業ができるはずなのに――。

 さて、
 以前にも書きましたが映画「ALWAYS三丁目の夕日」(2005)を見ながらひどく驚いたことがありました。それは主人公の寄宿する町工場兼住宅にテレビが届いた場面で、感激した一家の主人が一席ぶつという場面です。
「戦争が終わって13年、ついに・・・」
 そうです、映画の舞台の昭和33年は、戦争が終わってわずか13年なのです。それほどわずかの間に東京タワーを建てるまでに復興していた――が表向きの驚き、裏はさらにその5年前、昭和28年は私の生まれ年で、つまり私は戦争が終わってわずか8年目の子どもなのです。まったくその自覚がなかった――。

 そのあたりはおそらく8年という年月の、子どもと大人の時間感覚の違いもあるのでしょう。60歳を過ぎた人間にとって8年前は「ほんの少々昔」。しかし十代の子どもにとっては「ものすごく昔」です。私自身、実際に物心ついたころには戦争を思わせるものはほとんどなく、遠い過去の物語だったのです。
 しかしそれでもなお、ようく考えると終戦直後を思わせる記憶がないわけではありません。
 例えば近くの高校のグランドの隅にあった防空壕跡。それがゴミ捨て場になっていて、よせばいいのに幼馴染のケンちゃんが捨てられていた殺虫剤のスプレーを火であぶって爆発させ、全身黄色の液体まみれになって出てきたこと。
 祭に行くと神社の入り口に手足を失った白い和服姿のおじさんたちが立ったり土下座したりしていて、軍帽を目深にかぶり、アコーデオンやハーモニカで軍歌を演奏しながら喜捨を求めていたこと、それが子ども心にかなり怖かったこと、それくらいです。
「このあたりで戦争はあったの?」と訊くと母が、
「なんかアメリカさんの飛行機が山の麓に間違って爆弾を落っことしたみたいで、2個大きな穴が空いたとか言ってたけど、それくらいだね」
 その山の麓では秘密の地下軍事工場がつくられ始めていて、アメリカは警告の爆弾を二発落とした――オレたちは知っているぞ――そういった話を聞いたのはずいぶん大人になってからのことです。
 敵国にバレバレの“秘密工場”、逆に言えば“どんな秘密も暴いてしまうアメリカ”――そんなものを相手によく戦ったもんだ、それが若いころの私の戦争に対する認識でした。一言で行ってしまうと“バカなことをしたものだ”ということです。

 せめて両親の一方でも“反戦の勇士”であったら誇り高いのにと思ったのですが、母は十代後半で日の丸を振って男たちを送り出すのに熱心だったようですし、二十歳を過ぎたばかりの父は終戦の年に特攻を志願している有様で、「まったく騙された日本人」の一人でしかなかったようです。私はそうした間抜けな夫婦の子どもで、だから自分自身はしっかりしなければいけない、憲法前文にあるような、
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」
なければならないと本気で思っていたのです。何と不遜なことか!
 ひとたび戦争への機運が高まれば、誰もそれを止めることはできない、そうなるはるか以前に戦争への道を閉ざさなければ、絶対に戦争は停まらない、それどころか私自身が真っ先に銃を担いで走り出してしまう、そうしたことに気づくのはずっと後のことです。

                                             (この稿、続く)