カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「やはり必要だと思うが――」~家庭訪問のこと②

 私は家庭訪問が好きです。いろいろ珍しいものが食べられるからではなく、その子の育った環境やその子そのものが感じられること、そして春の家庭訪問・二学期末の懇談会と、メリハリのある保護者との対話が好きなのです。
 昨日お話しした「シーツの家」もそうですが、あれこれ推量するより家に行けば「百聞は一見に如かず」なのです。

 おっとり刀で出かけた家は正面に「○○興業」というドでかい金看板があり、家構えも何となく城郭を思わせる重苦しさですぐにそれと分かるものでした。
 毛足が長すぎて躓きそうな絨毯を歩いて畳の部屋に入ると、ものごく長い座卓が置いてあって片方の長辺に一族郎党が並んでいます。といっても両親と祖母、二人の姉と弟、反対側に私の席。まるで査問か組員審査でも受けているような感じです。
 正面に絵に描いたようなその筋のお父さん、もちろん家庭訪問につきあってくれるくらいですから悪い人であるはずはないのですが・・・。

 その子はとてもよい子でした。しかしのちに学校生活に躓き、しばらく登校できない日が続きました。もっとも事態をどう考えたらよいか、私には大筋で見当がつきました。どんな環境でどのように成長してきたか、肌で感じてきたからです。
 やくざの家がいけないというのではありません。その家の子で一番成績の良いスーパーエースだったのです。ほんとうはそこまでの力はなかったのに・・・。

 別の家では当然出てくるだろうと思っていた保護者が母親ではなく、父親がお茶を入れてくれてくれたことがあります。びっくりしていると、
「実は年明け早々に妻が家を出してまって・・・」
 子どもの姿からはそんな事情は微塵も感じられませんでした。もしあの時家庭訪問がなかったら、私はその子の窮状にいつまでも気がつかなかったのかもしれません。

 教え子の中でもっとも兄弟の多かったのは8人兄弟の4番目の女の子です。なにしろ末っ子の生まれた翌日の日記が「今度は男の子でした」という素っ気なさ。もしかしたら年中行事のようになっていたのかもしれません。家庭訪問で驚いたのは居間の広さでした。8人も兄弟がいるので「一人ひとりに子ども部屋」というわけにはいきません。その代わり大きな居間があっていつも兄弟たちが生活しているのです。必ずそばに誰かがいて言葉をかけ合う。これでいい子が育たないわけがありません。

 春、家庭訪問までの短い間に一人ひとりを観察し、当日は保護者と一緒に一年間の予定を立てます。この子はこんないいところがあるのでこの点を伸ばしましょうとか、お家の方のご心配事についてはこんなふうに対処しましょうとかいった話です。それを相手のフィールド、家庭教育と家庭学習の場で行い、それを基礎として、12月までがんばり、がんばらせます。
 12月の保護者懇談会は中間決算です。4月に立てた目標について、「ここまでできました」「こんなふうに成長しました」と報告するわけです。その上で残された課題について「冬休みや3学期にこんなふうに対処しましょう」、そんなことを話すのです。それはこちらのフィールドで行います。
 一年間の総決算は3学期の通知票の上で行います。こうすると一年間は着々と進行することになります。

 しかしそんな可能性豊かな家庭訪問も、すっかり流行遅れになってしまいました。

 家の中を見せるなんて真っ平だという保護者がいます。たった20分間のために掃除をしたりお菓子を用意したりするのはたまらないという人たちです。人数は多くありませんが声の大きな人たちです。それに対して積極的に答えていこうとする学校や行政のトップもいます。彼らは「教師はサービス業だ」といった言い方をします。
 サービス業である以上、「お客様にはできるだけ少ないご負担で最高の商品を提供します」が基本方針です。当然「お客様」の要求はどんどんエスカレートしていき、学校はできもしないことまで約束し始めます。
 しかしそれも消費社会ではしかたないことなのかもしれません。