カイト・カフェ

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「文章を書くときの私のこだわり」~私の文章作法」②

「私の文章作法」②です。①はいつだったかというと一昨年、2011年2月18日()でしたからもう1年半も前のことになります。
 そのとき私は、

  1. 文章読本』(丸谷才一著、1977年、中央公論社)の中にあった二つの教え、「書くように感じろ、書くように考えろ」と、「ちょっと気取って書け」を大切にしていること。
  2. 論説的な文章では断定的に書くこと。例えば「〜と思う」「〜ではないだろうか」などを極力排し、「である」「〜だ」に移すことに心がけていること。
  3. 文章というのは基本的に息とリズムで書くものだと信じていて、そのリズムに合わせて言葉を探していること。したがって読点にはとても気にしていること。
  4.  文章は一気に書くように心がけていること(その方がいい文が書ける)。
  5. 書くための題材を常に考えていること。

 そういったことをお話ししました。

閑話休題

 先日、大林先生が「〇〇教育研究」に載せる文章を見せてくださりました。若いのによく書けた文章でした。
 私は多くの場合、よほど分かりにくいところのない限り他人の文章に手を入れることをしません。失礼だからです。しかし大林先生はまだお若いですから年長者の文章作法を見ておくのもよいかと思い、今回はあちこち朱を入れさせていただきました。そしてそうこうしているうちに私自身、自分にたくさんのこだわりがあって長い年月の間に多くのルールをつくってきたことを改めて感じたわけです。

 それは、よく言えば「個性」で悪く言えば「こだわり」です。一般性はなく、否定されても賛同されてもどちらでもいい問題です。しかし「まあ、こういう考え方もある」ということでまとめて残しておこうと思います。思いつくままに記しますので重要な順というわけでもありません。よかったら参考にしてみてください。

① 一文の中に同じ単語を二度以上使わない。できれば近接する2〜3文の間でも避ける。
「あちらのコンピュータとこちらのコンピュータ、どちらのコンピュータがいいかとなると、かなり厄介なことになる」
私はこういう文が嫌いです。これは「二つのコンピュータの間でどちらを選ぶかとなると、これはかなり厄介な問題である」―そう書けばいいのです。一文の中に同じ単語が2度以上入るのは「野暮」なのです。「ちょっと気取って書け」に反します。

②漢語的な表現はできるだけ減らす。できるだけ楽な表現に心がける。
「〜的」「〜性」といった書き方は便利です。しかしそれでは文章が固くなるだけでなく意味も曖昧になります。そもそも「〜的」は「それっぽい」、「〜性」は「そうした方向」といった意味がありますので内容がぼやけてしまうのです。中島敦高橋和巳のような中国文学の専門家は別ですが、漢語的な硬い文章の中には、詳しく調べると内容が空虚なものがけっこう多いのです。意味を失った漢字は使わない。

③「出来事」にはすでに「出る」「来る」といった意味はありません。「人間と言う生き物は〜」との「言う」には「発音する」「アナウンスする」といった意味はありません。そうした部分は基本的にすべてひらがなにします。漢字はそれ自体が意味を持っているので文章にバイアスを与えるのです。

(この稿、続く)

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