カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「再び、もんた」~バカ親の記録を読んで

 先週、みのもんたさんのことを話題にしたら土曜日に届いた文芸春秋に独占手記が載っていました。文体からすると口述筆記です。

 本当に見るも嫌な人で話題にすることすら憚られるのですが、よりによって常に興味のある問題を提供してくれます。今月号の記事について言えば、問題となった次男に関する次のような一節です。

 中学、高校になって、次男のことで、妻が学校に呼び出されたこともありました。一度目は、ある生徒を屋上で痛めつけたときです。理由を聞くと、朝、次男の机の上に、写真週刊誌に載った私の記事がピンで留められていた、という。これは私の不徳の致すところでもあるのですが、次男が言うには、そこで犯人を突き止めて、二度とやるなと言ってやった、と。
 学内の生協で学ランを万引きしたこともありました。学ランを持っていない友達がいたので、「ちょっと待ってろ」とくすねたというのです。「あんな大きなものをどうやって盗ったんだ?」と問いただすと、鏡の前で試着して、店員さんがいなくなったのを見計らってそのまま店から出てきたと言うので、「友人のためというが、それは自慢にならない。オマエな、それは泥棒だぞ」と叱責した覚えがあります。

 絵に描いたようなバカ親の記録です。

 これは私の不徳の致すところでもあるのですが――不徳は週刊誌のネタにされるようなことをしでかしたことだけではないでしょう。“息子”がある程度の高校生だったら記事がピンで留められるようなことはなかったはずです。

「オマエの親も記事で叩かれているけど、オマエと親は別ものだ。人が何と言おうともオレはオマエの親友だ」と、そんなことを言ってくれる友だちがひとりでもいれば、“次男”はわざわざ犯人を突き止めて、屋上で痛めつけたりしないで済んだことでしょう。そうでなくても、普通は家族に不幸があれば子どもたちは静かに放っておいてくれるものです。

 学ランを持っていない友達がいたので、「ちょっと待ってろ」とくすねた
 そんな説明をされたら、私なら間違いなく激昂しています。
「ふざけるな! 言うにこと欠いて友だちのためだと? “友だち”は盗んでこいと言ったのか? 脅迫したのか? 脅迫でやらされたのならソイツの方が罪が重い。やったことには責任を取らなければならないが、やってないことまで取る必要はない。オマエには盗んだ責任を取らせるがソイツには唆しの責任を取らせなければならない。オマエがいやならオレがやる、さあソイツの名前を言ってみろ。

 それともオマエがソイツの気持ちを察して盗んだというなら、それはそれで別の考え方もある。オマエはソイツの気持ちを考えて盗んできてやった―それでいいか? しかしところでオマエの“友だち”は、人が盗んできたものを平気で着られるような人間なのか? 友だちが罪を犯して持ってきたものを、喜んで受け取れるような人間なのか?

 本人には盗んできたことを言わない? それはそうだ、つまらないことを言って“友達”を苦しめる必要はない・・・しかしそこまで思いやれるならなぜ盗んだ。なぜ私に相談しなかったのだ。もちろん相談されたところで買ってソイツにプレゼントするなんてことはありえない。その子にもプライドはあるからな。友だちの父親から施しを受けたとなれば男の子は生きていけない。
 しかしだったらオマエの古着をやればよかったんだ。お前が一度でも袖を通して洗濯をすれば、新品も立派な古着だ。それだったら“友だち”も受け取りやすいだろう。サイズを間違えたとか、親父が勘違いして同じものを買ってきてしまったとか説明はいくらでもつく。本当に友だちが大切で本当にその子に必要なものなら、そこまですべきだった、それをオマエは何とおろかなことを・・・!」
 叱責するというのはそういうことです。言葉の一つひとつにそれほど意味があるわけではありません。とことんオマエとつき合ってやるという強い姿勢です。
 それは「オマエな、それは泥棒だぞ」で済ませることの対極にあるものです。