「道徳教科化の行方」�B

 道徳が教科化しても、形の上ではそう大したことが起こるわけではありません。そのことは「教育再生実行会議第二回会議《平成25年2月15日》の文部科学省提出資料」を見ればわかります。ただし内容的には大きな問題を抱えることになるかもしれません。第三次報告が繰り返し訴えているのが「偉人伝、古典、物語、芸術・文化などを活用し感動を与える多様な教科書を作る」だからです。

 かつて小学校学習指導要領社会科に、歴史学習で取り上げるべき人物のリストが提示され、明治天皇東郷平八郎といった、小学校では扱いにくい名前があって問題となったことがあります。同様に教科化によって道徳でも取り上げるべき人物、読むべき文章が偏ったかたちで出てくる可能性があります。

 どんな場合も、万人が感動するような資料というものはありません。教師は児童生徒の様子を見ながら、必要に応じて道徳の授業の内容を決め、資料を用意します。それが道徳と算数・数学、国語との違いです。

 統一された教科書を使って日本全国、同じ時期に同じ教材を扱うとなれば、道徳は恐ろしく貧困なものになるでしょう。それは健全なものを侵すことになります。政府はしばしば平気で、健康な体にメスを入れます。

 政治家や役人などの素人は“道徳”が分かっていないのです。偉人伝や古典の素晴らしい作品に出合えば、人は変わると本気で信じているのです。そこには「人間には分かっていてもできないことがある」という人間の弱さに対する理解がまったくありません。人間は、分かっただけではできないのです。

 算数ではよく「分かる、できる、すらすらできる」と言いますが、「道徳」の授業でできることはせいぜいが「分かる」の半分くらいです。分かった上で実際にでき、やがて苦もなくできるようになるためにはたくさんの訓練が必要です。私たちは特別活動などを通じて、朝から晩までそれをしています。

 並びなさい、順番を守りなさい、仲間どうし協力して仕事をするのです。出しゃばってはいけませんがいつまでも引いていてもいけません。自分の役割を果たしなさい、けれど全体に対する気配りも忘れてはいけません。弱いものを守りなさい、力のある者はその分、責任も重いのです。食事は順序良く、よく噛んでするのです。食べ物や作ってくれた人に感謝して、好き嫌いなく食べるようにできなくてはなりません。学校の中だけでなく地域の人にも挨拶をしなさい、特に地域のお年寄りは大切にするのです。地域を愛し、汚さないようにしなくてなりません。また、汚していけないのは自分の地域だけでなく、国内のどの場所も、そして外国でも同じなのですよ。世界の平和のために何ができるか考えましょう・・・。

 そんなことを保育園から高校生になっても延々とやっています。体験的に学ぶのです。それが日本の道徳教育です。

 そういうことも考えず、「行事の精選」とか言ってせっかくの道徳の教習を削ってしまうのはほんとうに愚かなことです。世界中の研究者たちがこぞってこの日本のシステムを讃えているというのに、国内はまるで評価せず、東日本大震災で見せた日本人の優れた道徳性も「日本人のDNA」とかいった訳の分からない概念で済ませてしまいます。DNAのためにそういうことができるなら、道徳教育など必要がありません。