カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「地蔵さんになりたい」~両手を広げてブーンと飛んでいき、ひとを助ける存在

 釈迦三尊像や薬師三尊像のそれぞれを見比べると共通の特徴があります。それは脇待として横にはべる菩薩(法隆寺釈迦三尊像の場合は薬王・薬上、薬師如来の場合は日光・月光)は派手な装身具をつけているのに対し、中央の仏または如来(仏と如来は同じもの。以下、仏で代表する)は布一枚を体に巻いているだけだということです。
 これは仏が悟りを開いて世俗の欲望を振り切ってしまったのに対し、菩薩は仏のワンランク下の“候補生”ですのでまだ欲望にまみれ、ブレスレットやネックレス、宝冠などで全身を飾っている、そういう意匠なのです。

 菩薩には薬王・薬上、日光・月光以外にも、普賢・文殊、観音・勢至などさまざまにありますが、中でも特に有名なのが地蔵菩薩です。
 地蔵は鎌倉時代に流行した菩薩で、他の菩薩とは異なり、布一枚を体に巻き、一切、装身具をつけていません。仏と同じです。しかし仏が天然パーマの髪をある程度伸ばしている(ラホツと呼ばれるあの頭についたブツブツがそれです)のに対し、地蔵さんは剃髪して丸坊主のままです。これはまだ地蔵が修行段階であるにもかかわらず(丸坊主がそれを表しています)、他の菩薩と違って装身具を捨て(つまり仏となる道を捨てて)、別の世界に生きることを決意したことを表しているのです。自分が仏になること(これを成仏と言います)を諦め、今、目の前で苦しむ人を救おうという決意です
 彼は法力によって人間の死後の世界を見てしまいました。そして地獄に苦しむ人や餓鬼道に生きる人、天に生まれ変わったもののいつまた別世界に送られるかもしれないと恐れる人々を、救いに行きたくなったのです。

 仏教では、人は死ぬと六つの世界(りくどう:天道・人間道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道地獄道)に生まれ変わると信じられています。その六つの世界の人々を同時に救うために、地蔵は六つの姿に分身します。それが六地蔵です。
 地蔵は自在ですから、六道にも行けず賽の川原で石を積む子どもたちの前にも姿を現します。だから子どものための菩薩です。
 また、鎌倉武士たちは自分がいつか人を殺し、やがては地獄に落ちる自分を理解していましたから、地獄まで来てくれる唯一の存在=地蔵菩薩を深く信仰しました。鎌倉以降、各地に六地蔵が建てられるのはそのためです。

 私は、目の前で苦しむ人たちのために居ても立ってもいられず、わが身の幸せを振り捨てて駆けつける地蔵という存在に憧れます。

 昨日、このところ荒れているという某小学校についてその様子を聞きました。小学生なのに今から家出・深夜徘徊・喫煙・暴力なのです。かわいそうですね。何ができると言う目算があるわけではありませんが、私は地蔵さんのように両手を広げ、空を飛んでその子たちのために駆けつけたくなりました。