一人前の大人になるために
昔よりずっとたくさんの知識や技能が必要になっている
しかしだからといって 道徳や人間関係の学びを犠牲にして
何の学校教育だ
という話。
昔よりずっとたくさんの知識や技能が必要になっている
しかしだからといって 道徳や人間関係の学びを犠牲にして
何の学校教育だ
という話。
(写真:フォトAC)
【何かを入れるとき、代わりに何を犠牲にするか】
今週火曜日(18日)のNHK「視点・論点」は「金融教育のすすめ」というテーマで、泉美智子(子どもの環境・経済教育研究室代表)という方が語っておられました。
内容は大雑把に言って、
「私たちの日常生活はお金と切っても切れない関係にある。それなのにお金について学ぶ機会が、非常に少ないのが日本の現状である。来年度入学生から高校家庭科では家計管理の一部として、『資産形成』が追加された。それ自体は喜ばしいのだが、高校に来ていきなり預金・株式・債券・投資信託・民間保険などなどさまざまな金融商品への理解を深め・・・などと言われても戸惑うばかりである。やはりほかの教科同様、易から難へ、小中学校のうちから時間をかけて学ぶことが大切である・・・」
という話です。
ここまで聞いた段階で、血の昇りやすい私は頭の中で、
「そりゃあいいが、いつやるのよ。これ以上の追加教育がどこにはいるのよ?
小学校も中学校もやること満載で、時間割もズタズタな状態。何かを始めるなら何かを壊さなくちゃいけないのだが、金融教育のために何を減らすのだ?
性教育か? 環境教育か? コンピュータ教育か? それとも数学か? 英語か? 体育か?」
と速射砲のように言葉が浮かんだのですが、泉先生の主張は比較的穏当で、小中学校の社会科の、経済を学ぶ場面でより金融に比重をかけろ、といった程度のものでした。もちろんそれでも、債券だの投資信託だのを入れた分、犠牲にすべきは為替か? 納税か? 雇用や労働の問題か?といった問題は残りますが――。
内容は大雑把に言って、
「私たちの日常生活はお金と切っても切れない関係にある。それなのにお金について学ぶ機会が、非常に少ないのが日本の現状である。来年度入学生から高校家庭科では家計管理の一部として、『資産形成』が追加された。それ自体は喜ばしいのだが、高校に来ていきなり預金・株式・債券・投資信託・民間保険などなどさまざまな金融商品への理解を深め・・・などと言われても戸惑うばかりである。やはりほかの教科同様、易から難へ、小中学校のうちから時間をかけて学ぶことが大切である・・・」
という話です。
ここまで聞いた段階で、血の昇りやすい私は頭の中で、
「そりゃあいいが、いつやるのよ。これ以上の追加教育がどこにはいるのよ?
小学校も中学校もやること満載で、時間割もズタズタな状態。何かを始めるなら何かを壊さなくちゃいけないのだが、金融教育のために何を減らすのだ?
性教育か? 環境教育か? コンピュータ教育か? それとも数学か? 英語か? 体育か?」
と速射砲のように言葉が浮かんだのですが、泉先生の主張は比較的穏当で、小中学校の社会科の、経済を学ぶ場面でより金融に比重をかけろ、といった程度のものでした。もちろんそれでも、債券だの投資信託だのを入れた分、犠牲にすべきは為替か? 納税か? 雇用や労働の問題か?といった問題は残りますが――。
【学校で学ぶべきこと】
こうした「◯◯教育を充実(新設)させろ」という話の大半は聞き流していてもいいものですが、ときに「総合的な学習の時間」や「小学校英語」や「プログラミング学習」のように実現してしまうものもあるので、注意深くしなくてはなりません。
特に消費者教育と金融教育はかねてから噂のあるもので、これらを入れようという動きがあったら、代わりに何を外すのか、問い続ける必要があるでしょう。
しかしそれにしても、こうした新たな教育の提案は、なぜこうも簡単に次々と出されてくるのか――そう考えたとき、ヒントとなる言葉が泉先生の言葉自体にあることに気づきました。
泉先生はこう言ったのです。
「学校での教育の目的は何かというと、将来一人前の大人として暮らして行くための、必要な知識と考える力を身につけさせることです。一通りの漢字が読めないと、あるいは四則計算ができないと、生活にあれこれと不便が生じます。理科や社会で学ぶ知識や考える力も、必ず生活で役立つはずです」
先生は知らないのです。学校が最も心血を注ぎ、時間もたっぷりかけているのは「必要な知識と考える力を身につけさせること」ではありません。それも大切ですが、もっと大切なのは「考えなくてもできる力」なのです。
特に消費者教育と金融教育はかねてから噂のあるもので、これらを入れようという動きがあったら、代わりに何を外すのか、問い続ける必要があるでしょう。
しかしそれにしても、こうした新たな教育の提案は、なぜこうも簡単に次々と出されてくるのか――そう考えたとき、ヒントとなる言葉が泉先生の言葉自体にあることに気づきました。
泉先生はこう言ったのです。
「学校での教育の目的は何かというと、将来一人前の大人として暮らして行くための、必要な知識と考える力を身につけさせることです。一通りの漢字が読めないと、あるいは四則計算ができないと、生活にあれこれと不便が生じます。理科や社会で学ぶ知識や考える力も、必ず生活で役立つはずです」
先生は知らないのです。学校が最も心血を注ぎ、時間もたっぷりかけているのは「必要な知識と考える力を身につけさせること」ではありません。それも大切ですが、もっと大切なのは「考えなくてもできる力」なのです。
【考えなくてもできることを増やす】
例えば、車いすの人が踏切を渡れなくて困っているとき、それを支援するにはいくつもの力が必要になります。
まず初めに、そこに困っている人がいると気づくこと。
第二に、声をかける勇気。
第三に、安全に踏切を渡す技術(段差の乗り越え方など)
その中で最も難しいのが1番です。あとの二つは知識があったり考える力があったりすればなんとかなりますが、「気づく」というのは相当な訓練を経ないと身につかないものです。
同じように、「与えられた仕事に誠実に当たる」とか「分担されたことはきちんとやる」とか、法令順守だとか、弱者救済だとか、協働・協力とかは、知識や考える力の問題ではありません。茶道の所作や舞踊やスポーツのように、「考えなくてもできる」ことを増やしていかないと人間としての発展がないのです。
まず初めに、そこに困っている人がいると気づくこと。
第二に、声をかける勇気。
第三に、安全に踏切を渡す技術(段差の乗り越え方など)
その中で最も難しいのが1番です。あとの二つは知識があったり考える力があったりすればなんとかなりますが、「気づく」というのは相当な訓練を経ないと身につかないものです。
同じように、「与えられた仕事に誠実に当たる」とか「分担されたことはきちんとやる」とか、法令順守だとか、弱者救済だとか、協働・協力とかは、知識や考える力の問題ではありません。茶道の所作や舞踊やスポーツのように、「考えなくてもできる」ことを増やしていかないと人間としての発展がないのです。
【日本人を「日本人」に育てる】
私たちが道徳と呼ぶものの大部分には「考えなくてもできること」が期待されています。考えずとも正しいことができるようになる、すべきことができるようになる、美しい行いができるようになる――そのためにはたいへんな量の経験が必要です。
学校教育では教科教育や総合的な学習の時間の中でさえ、道徳的な価値の追求が行われます。順番を守りましょうとか、ルールに従って発言しましょうとか、友だちを信頼して大声で歌いなさいといったことです。日本では、それを義務教育だけでも9年、幼保育園から高校まで含めると13年以上も使って育てているのです。そうやって「日本人」は創られます。
金融教育より道徳教育が優先されるのは、人間関係をうまく回す技術が資金をうまく回す技術よりはるかに尊く重要だと、教師たちが考えているからです。
学校教育では教科教育や総合的な学習の時間の中でさえ、道徳的な価値の追求が行われます。順番を守りましょうとか、ルールに従って発言しましょうとか、友だちを信頼して大声で歌いなさいといったことです。日本では、それを義務教育だけでも9年、幼保育園から高校まで含めると13年以上も使って育てているのです。そうやって「日本人」は創られます。
金融教育より道徳教育が優先されるのは、人間関係をうまく回す技術が資金をうまく回す技術よりはるかに尊く重要だと、教師たちが考えているからです。