プライバシー保護の苛立たしい重さ

 「教員の不祥事が止まらない」―と書いて、心のどこかに「ほんとうに教員の不祥事って増えてるの?」と首を傾げる気持ちがあります(またいつか調べてみましょう)。ただし文科省都道府県教委が「これだけ口を酸くして言って処分も厳しくしたのに、どうしてゼロにならないのだ」と苛立つ気持ちも分からないではありません。しかしこれにしても、「何らかの処置を講じれば教師の不祥事はゼロになる」という、そういうものなのかといった疑問が浮かびます。

「保健衛生が徹底すればある種の伝染病はなくなる」というのは間違っていません。事実天然痘はそうやって地球上から駆逐されました。しかし「保健衛生が徹底すれば風邪をひく人はゼロになる」というのはやはり無理でしょう。どんなに頑張っても地球上から風邪がなくなることはないからです。

 同じように教員の不祥事というのはゼロになるものなのか、あるいは一定量として常に存在するものなのか、存在するとしたらその最低値はどの程度なのか、正確でなくてもいいのですが、それが弾き出されればそれが目標値となるはずです。

 それはそんなに難しいことではなく、例えば過去10年程度の職業別犯罪率を計算して、その結果、特定の職業が犯罪率ゼロだったとしたら、教員という集団もゼロのできる可能性が見えてきます。ゼロでないにしても極めて数値の低いグループがあったとしたら、その犯罪率が目標値になります。そしてその値は、目標であると同時に「甘受しなければならない最低の数値」ということにもなります。それがどんなに努力しても、人間である以上防ぎきれないものもあるのです。

 なにか問題が発生するたびに「あってならないことが起こった」と言っても始まりません。倫理的に「あってはならないこと」でも、統計的には「あっても仕方がないこと」はいくらでもあるのです。

と、ここまで書いて、

―しかしこんなふうにいつまでも叩かれるのはかなわないなあという気持ちがないわけではありません。不祥事撲滅は私たちにとっても利益です。

 そこで少し真面目になって、「ほんとうになぜ不祥事はなくならない(限りなくゼロに近づかない)のか」と考えたとき、ふと思いついたのは「傾向なき対策」という言葉です。

 とにかく何らかの不祥事があった時、私たちが手に入れられる情報はマスコミの記事以上ではありません。ほとんど何も分からないまま、反省しろ、他人ごとではないといってもさっぱり先に進みません。傾向分析のない対策は単なるお題目になりかねません。

 例えば児童買春事件があったとしても、その中身は単純ではないでしょう。加害者が常習的な性的倒錯者である場合もあれば、“被害者”が天才的な誘惑者である場合まで幅があります。そしてその両極では対処の仕方がまったく異なってきます。

 前者だったら倒錯者をあぶりだす方策を練り、後者だったら教員に下ろす注意事項の中身がそれなりになります。

 そんなふうに事実分析がなされなければならないにもかかわらず、被害者保護の立場から、事件の内容は一切降りてきません。ほんとうに教員にも知らせられないような事実があるとしたら、分析結果だけでも下ろせばいいのに、それもしません。

 被害者のプライバシーはそれだけ重いのであって、結局、私たちへの指導は精神論と脅しだけで終わってしまいます。

“正義”にはなかなかしんどいものがあります。