カイト・カフェ

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「お手本の国のウソ」~外国を手本にしていいことなんて何もない

「新学力観」という言葉は1980年代最後の時期に言われ始めたことで、簡単に言ってしまうと「旧来の学力観が知識や技能を中心にしていた。しかし進歩の速い現代にあって、知識・技能はあっという間に陳腐化してしまう。これからの時代は学習過程や変化への対応力を重視なければならない」といった学力観です。しかしそれにしても、知識・技能というものはそんなに軽視されていいものなのか、基本的に身に着けなければならないものはたくさんあるはずだ―それが当時の現場の教員の率直な思いでした。

 総合的な学習の時間が始まる直前、マスコミは「これからのグローバル社会においては日本のような知識偏重では必ず行き詰る。今必要なのは『考える力』なのだ」とか言っていました。現場の教師は、すべての子どもに世界に通用するような「考える力」をつけようとする教育が正しいものなのか、首を傾げる人がたくさんいました。

 そして21世紀になったとたん、「学校は教えるべきことを教えていない」と、突然非難されるようになりました。結局私たちの直観は正しかったのです。

 何年か以前、民主党小沢一郎さんあたりが「安定した政治のための二大政党制を」と叫び始めた時、二つしか選択肢のない選挙がどうしていいのか分かりませんでした。しかしイギリスやアメリカがそうだからといったよく分からない説明つきでマスコミも煽り、自民党民主党の二大政党ができあがって政権交代まで果たしてしまいました。

 しかしいざ始まってみると、両者とも中間層を広く取り込もうとするので言っていることがそっくりになってしまいます。確かに「どちらを選んでもまったく同じ」という意味では安定していますが、小沢さんや私たちはそんなものを望んだのでしょうか。

 同じく何年か前まで、一般市民や犯罪被害者に不利な判決がでるとマスコミは「不当裁判!」「まったく庶民感情に合わない法曹界の石頭たち」とか声高に叫んで「裁判に市民の声を、アメリカのような陪審員制度の導入を!」とかやっていました。私は映画の法廷ものや「刑事コロンボ」みたいな推理物が大好きで、陪審員による裁判の場面は(映画で)数多く見てきました。しかしあんなパフォーマンスで自分の運命が決められたらかなわないというのが率直な思いでした。案の定、裁判員裁判が始まるとマスコミは一斉に首を傾げはじめました。あと数年すると「裁判員裁判の不当」が叫ばれるようになることでしょう。

 先日の義務教育の留年問題のときも「フランスでは昔からやっている制度だ」などという話が出てきましたが、こと学力に関する限り、フランスは日本よりずっと格下です。

 何でも外国を持ち出せばいいとなれば「ドイツはほとんどが半日学校だ!」とか「◯◯国では体罰で学力を上げてるぞ!」とか、あるいは「△△国では子どもが学校に来るとお金がもらえるんだぞ!」と好き勝手な(しかしいずれも事実)ことを言っていればいいのです。

 以上、私が現在読んでいる「『お手本の国』のウソ」(新潮新書 2011)を念頭に思ったことです。