「所作」2

 

 保護者の方に、「お子さんに、どんなふうに育って欲しいとお思いですか?」と聴くと、まず確実に「他人に迷惑をかけない」が出てきます。さらに突っ込むと「自由に、のびのびと」という事が出てきますが、たいていはそれで終わりです。「それ以外に大事なことはないの?」ともう一押し突っ込みたいところですが、普通はそれでやめてしまいます。

 

 道徳が「他人に迷惑をかけない」だけだと、「迷惑さえかけなければ、何でもアリ」のとんでもない子が育ってしまいます。「自由にのびのびと」も、小学校低学年くらいなら楽なものですが、中3になって「自由に、のびのびと」やっていられるような子どもは大変な子たちです。これを育てるのは容易なことではありません。

 勉強もある程度できなければダメですし、部活や生徒会、そして何より人間関係をうまくやれる子どもにしておかなければ「自由にのびのびと」というわけには行かないあらです。しかしそこまでやっても、まだ不足です。ぜんぜん足りません。なぜなら私たちの世界には「美しく生きる」というもうひとつの重要な道徳観があるからです。昨日の「所作」と同じです。

 

 食事のとき膝を立てて食べてはいけないのは、それが美しくないからです。「服装をしっかりしなさい」とか「きちんと並びなさい」とか言うのもみな同じです。自分の言葉遣いやしぐさにに気をつかったりするのもそうです。店のエスカレーターで人を押し退けて前に出ないのも、レジの前できちんと並ぶのも、そしてもしかしたら赤信号で止まるのも万引きしないのも、全部「隙さえあれば全部自分の得になるように」という生き方が醜く耐えられないからかもしれません。

 

 そうした生き方の美しさ所作の美しさは、しばしば「品(ひん)」という言葉で表現されます(品にはランクがあって、これを「品格」と言います)。品は美しさの問題ですから、言葉で説明することはできません。ピカソモーツアルトのすばらしさをどんなに言葉にしてみても、まったく他人を納得させられないのと同じです。美を感じる能力は経験によってしか獲得できません。ですから「品」も美しい生き方の経験からしか得られないのです。

 

「子どもは納得しなければ絶対に動かない」とか、逆に「子どもは納得さえすれば何でもします」と言った言い方がありますが、私はそれが納得できません。子どもに美しい生き方をさせるためには、納得を媒介にしないやり方があるはずだからです。