「誰もが納得する答えを求めてはいけない」~なぜ人を殺してはいけないのか①

  昨日の「たかじんのそこまで言って委員会」の中で、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という子どもからの問いにどう答えるかというテーマがありました。

 この「なぜ人を殺してはいけないのか」というのはかなり有名な設問で、今から16年ほど前、これも有名な酒鬼原事件に際して行ったTBSのテレビ番組、「ニュース23」の夏休み特集の中で、出演していた高校生が「人を殺してはいけない理由が分からない。自分は死刑になりたくないから殺さないだけだ」という主旨の発言をし、その場にいた大人たちを絶句させたことに始まります。

 その後、設問に答える形でいくつもの著書が発表され、雑誌「文芸春秋」1998年夏号でも特集記事となって70人もの著名人の回答が紹介されました。

 もちろん基本的な答えは「自分がやられて嫌なことを人にやってはいけない」ということです。あるいは「殺人が許されるとしたら、人はお互いに殺し合い、人類は塗炭の苦しみを味わうことになるから」でもいいでしょう。「殺してもいいよ。だけどキミは死刑だよ」という答えも野坂昭如の言葉として「たかじんの〜」で紹介されていました。

 しかし、それにもかかわらずこの設問が生き続けいつまでも話題となるのは、発問の最後にカッコつきでこんな言葉が見え隠れするからです。
「なぜ人を殺してはいけないのか(その高校生が“納得する形で”お答えください)

「ニュース23」のコメンテーターが絶句したのも、何人もの知識人が文や言葉にし続けなければならなかったのも、その答えで果たして高校生は納得し、ポンと手を叩いて清々しく帰ってくれるだろうか、という疑問が払拭できなかったからです。ここに罠があります。

 私たちは子どもの質問に対して、「相手が納得するような形で答えなければならない」という呪縛に囚われています。ですから反射的にそうしようとします。「子どもは納得しないと動かないものだ」、その裏返しとしての「子どもは納得さえすればどんなこともやろうとする」も皆同じです。体罰も抑圧も許されない中で子どもを教育しようとすれば、どうしても“納得”が媒介として必要になります。
 しかし世の中、すべてが納得できるようなもので成り立っているのでしょうか

 努力が必ずしも報われないとか能力のある者がそれにふさわしい地位にいないとかいった具体的で現実的な問題は別にしても、もっと理念的なテーマでも“納得”を得るのは非常に困難な場合があります。

 たとえば「人間はみな平等だ」ということ。現代では当たり前ですが、明治の元老にとってはそう簡単なことではありませんでした。
 彼らは若くして苦労し、勉学に励んで欧米に留学し、そこで最新の人権思想を学んで帰国します。人間は基本的に自由で平等であると教えられて日本に戻るのですが、横浜港を降り立った瞬間に躓きます。

 死ぬほどの努力をして国のために励んだ自分と、朝から酔っぱらって博打を打つ沖仲仕とが“平等”、ということがどうしてもピンと来ないのです。しかし彼らは「人間は平等だ」という命題を受け入れざるをえませんでした。

(この稿、続く)