カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「なぜ頭の中の警報は正しく鳴らなかったのか」~私たちは子どもに罠をしかけていないか③

 部下の遅刻を優しくとがめる上司と、生意気な物言いの部下。
 それはいかにも令和らしい風景で、昭和にはなかったものだ。
 しかし令和の、丁寧に時間をかけて言葉を尽くす指導が、
 必ずしも本人のためになるとは限らない。
という話。(写真:フォトAC)

【令和だから起こったできごと】

 一昨日から話題にしている「朝寝坊で出勤できなかった部下」と「そこに電話を入れた上司」とのやりとりは、見方によれば「日常の態度・言動・考え方・性癖を逆手に取られた一人の若手社員が、社内での信用と立場を失い退職に追い込まれていく物語」と考えることもできます。
 録音されたやり取りが直接、馘首に繋がるとも思えませんが、組織にいながら朝寝坊・遅刻といった失態を犯した上に上司にあんな物言いをするようでは、長くは続かないでしょう。まさに、
「終わった・・・この会社のオレ、もう終わった・・・」
というところです。

 しかしこれは令和だから起こった事件で、昭和の御世だったらまずありえないことです。なぜなら電話をして来た上司の第一声が令和とは全く違ったものだったろうからです。
「もしもし、◯◯君?」
「はい」
「何が『はい』だ! テメエいま何時だと思っているんだ! 寝坊だろうが! とっとと顔を洗って30分以内に出社しておれの前で土下座しろ!」
・・・と、さすがに土下座までは言わないかもしれませんが、30分ではとてもではないが着けない会社に30分で来いというのは明らかな嫌がらせで、だからこそ社員は怯えるのです。で、2時間も遅れて会社に着くと平身低頭、上司が口を開く前に土下座の勢いで、
「すみません。心から反省します。二度としません、二度と寝坊しないようにします」
と言えば、たいていの場合は許してくれたものです(常習でなければ)。
 それは一種の決まり事で、上司もひと芝居打って大激怒して見せないと立場がありませんし、部下も土下座の勢いで謝らなければ謝ったことになりません。「大激怒」と「平謝り」がセットになっておさまりがつくのです。私はそれがなぜいけないのか、分かいません。簡単でいいじゃないですか。

【丁寧に時間をかけて言葉を尽くすことが、本人のためになるとは限らない】

 例に挙げた昭和の上司は、
「テメエいま何時だと思っているんだ!寝坊だろうが!」
と取りつくしまがありません。それに対して一昨日から取り上げている令和の上司は、
「ごめんね、朝から、起こしちゃって、電話で。電話で起きちゃった?」
と姿勢は低く、
「遅刻だよ」
と事実を伝え、
「普通に寝坊しちゃった・・・かな?」
と丁寧な確認もしています。さらに上から押しつけるのではなく
「遅刻は、良くないんじゃないかな」
と疑問を投げ、本人に考えさせようとしています。しかしすでに見て来た通り、そうした配慮自体が言われる側を相当に苛つかせるものでした。上司は、そんな言い方で真綿で首を締めるようにゆっくりと追い詰め、部下は謝罪ではなく生意気な態度へと誘導されて、破綻します。

 令和の世は目下の者、年少者、弱者に対して徹底的に丁寧に、時間をかけ、本人が納得するまで言葉を尽くすことが求められています。もちろんそれ自体が間違っているわけではありませんが、果たしてそのやり方は本人のためになっているのか、それで嬉しいのか、指導する側にとってそれは単なるアリバイ作りになってはいないのか、と私は懸念するのです。
 
 2021年12月に大阪の清風高校で起こったカンニング事件では、校長を始めとする5人も教師が、ひとりの生徒に4時間という膨大な時間をかけて指導しました。頭ごなしに怒鳴りつけた様子はなく、「カンニングは卑怯者がすることだ」などと丁寧に諭され、その結果、生徒は二日後、遺書に「死ぬという恐怖よりも、このまま周りから卑怯者と思われながら生きていく方が怖くなってきました」と記して自殺します。
「全科目0点」「自宅謹慎8日」「写経80巻」「反省文作成」――もうそれだけで十分じゃないですか。事務的に言い渡して、「さあ、これだけやってきなさい(罪を償ったらみんなで忘れましょう)」ではなぜいけなかったのか。カンニングが悪いことだなんて、高校生にあらためて指導する内容ではないと思うのです。

 朝寝坊で遅刻した社員も「二度と遅刻などするんじゃねぇぞ(態度が改まれば、それでいいんだ)」だけで済ませる訳には行かなかったのでしょうか。「寝坊したので会社に遅刻しました」は極めて単純な話で、謝って処罰を受ければそれで終わる話で、遅刻の善悪を言っても始まらないことです。ましてや「朝から起こしちゃってごめんね」といった性質の話ではないでしょう。
 何でも丁寧に時間をかけて言葉を尽くせば、本人のためになるとは限らないのです。

【なぜ頭の中の警報は正しく鳴らなかったのか】

 私は寝坊で遅刻した生意気な若手社員に、精一杯、頭を回転させて寄り添おうとしています。しかし理解できないことの方が、やはり少なくありません。

 いかに半覚半睡とはいえ、電話で起こされた→中で誰かが『遅刻だよ』と言っている→上司だ――と、どんなに遅くともその時点では頭の中で警報がガンガン鳴り響き、大変だ、何とかしなければ、叱られる、クビになる、就活のやり直しだ、キャリアダウンだ、収入が途絶えると、非常事態に対する臨戦態勢がつくられなくてはなりません。
 頭をフル回転させてもっともらしい言い訳を考えたり、ウソをつくのと真実を言うのとどちらが有利なのかを計量したり、聞かれたらすぐに答えられるようにあと何分で家を出られるか計算したり、今日一日の予定を思い浮かべたり、そういったことを一気に考えなくてはならない瞬間です。
 ところがこの子(私にとって20代~30代も「子」みたいなものです)は、どうやら頭の中で警報は鳴ったようなのですが、「遅刻だって」→「ヤベエ」→「マウント取られる」→「強気に出なくちゃ」と、妙な方向に行ってしまったみたいなのです。

 Xでの引用にはなくて私が文字起こししなかった後半には、こんなやりとりもあります。
「電話が遅いんすよ。もうちょっと8時くらいに電話してもらえば、オレ、起きれたし――」
 けれどさすがに8時では間に合わないと考えたのか上司が、
「じゃあ7時とかに電話すればよかった?」
と問うと、
「いや7時は早すぎでしょ。それは迷惑でしょ。朝7時に電話っていうのは、ちょっと常識がないというか・・・そんなことわかるでしょ、言わなくても」

 ここに至って話は振り出しです。どうやったって救いようがない、この子は。もはや打つ手が残っていません。
 しかしそれにしても思うのです。私たちは――親は、教師は、社会は、どこでどんな間違いを犯して、普通の社会ではまったく心地よく生きて行けない、こんな可哀そうでつまらない人間を、育ててきてしまったのでしょう。
(この稿、続く)