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「子育ては保育園と学校が面倒を見ます」~少子高齢化が教員の働き方改革を阻害する②

 日本の少子化・高齢化が、教職員を増やすことに二の足を踏ませる。
 女性の社会参加を促し、二人以上の子を持つことが奨励される。
 代わりに差し出されるのが、
 「子どもは学校が面倒を見ます」と書かれたカードだ。
という話。(写真:フォトAC)

少子化が確実である以上、教員を増やすことはできない】

 少子化が学校教育にどう影響するかというと、まず出てくるのが「将来に向けて教員を減らさなくてはならない」という話です。

 教員の数は「定数法(公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律)」によって決められています。基本は各校の学級数によって決まります。正確に言えば児童生徒数が学級数を決め、学級数が教員数を決めるのです。
 例えば、各学年すべて38人という学校があった場合、今年度は35人学級制度が5年生まで伸びているので、1~5年生が2クラスずつの6クラス。6年生だけが40人学級制度のもとにあるので38人で1クラスのままです。
 定数法で「全部で11クラスの小学校は教員数13」と決まっていますから、そのうち11人を学級担任に、残りの二人を「教頭と音楽や理科の専科教員」あるいは「副校長と教頭」あるいは「教頭と主幹教諭」といったふうにその学校にあった方法で振り分けます。

 この数は法改正がされない限りは絶対で、「今年は就職難なので世のため人のために少し多く採っておきましょう」とか「教員採用試験の受験者が少ないので減らしましょう」とかいう訳にはいきません。また将来の教員不足を見越して多めに採用しておくこともできず、できるのは将来の教員余りを見越して少なめに採ることだけです。不足分はいつでもクビにできる「講師」で補っておきます。

 現在、小学校の先生はおよそ41万7000人いますが、これが将来のいずれの時にか40万人にまで減ることが分かっているとして、そんな状態で41万7000人全員を正規で採ることなどできるはずがありません。教員は一度採用すると40年先までずっと居続ける人たちです。
 現場感覚としては「正規教員が余ってもやってもらう仕事はいくらでもある」というのが本音ですが、財務省としては「法律上必要のない先生」1万7000人を延々と雇っておくわけにはいかないのです。教員40万人時代に向けて、今から正規教員を減らして講師で対応しておく必要がある――それが財務省の言い分で、理はそちらにあります。
 つまり「学校職員の一部は必ず講師を当てておく」というやり方は今後も長く続き、「講師」をやってもいいという人を4月の段階でまとめて先取りすると、産育休や療休のための臨時講師がいなくなるという喫緊なのに慢性的な状況は、子どもの数が減り切って安定するまで、続くのです。
 もちろん根本的な法改正を行えば教員を増やすことはできる訳で、その可能性がまったくないという訳でもありません。

【労働力不足は移民でなく、女性の社会参加と多産多子化で補おうとする】

 少子化・高齢化が進み労働人口が極端に減る社会では、さまざまな対策が練られます。
 外国人労働者に一部を肩代わりしてもらおうというのはひとつのアイデアで、「改正出入国管理法」もそうした試みのひとつです。しかしわが国の場合は、アメリカやドイツ・スペインのように毎年数十万人から100万人もの永住型移民を受け入れようという覚悟はないようです。渋谷の駅前が外飲みを楽しむ外国人でゴミだらけになったというだけで天を仰いでいるようではダメでしょう(私も精神的二の足を踏んでいます)。
 100年先のことは分からないにしても、ここ数年~十数年の間に日本がフランスやドイツのような移民であふれかえる国になるとは到底思えません。
 
 そうなると自前で労働力を賄うしかないのですが、考えられるのは長期的には若い人たちにたくさんの子どもを産んでもらうこと、短期的には家事労働に縛られている女性に社会に出て来て働いてもらうこと、この二つしかなくなります。そこから少子化対策だの女性活躍社会だのと言った言葉が出てきますが、夫婦で働いてもらった上に子育てをしてもらうというのは、現実的にはかなり厄介です。
 そこから家事育児の一部は社会が背負っていくべきだという考え方が出てきます。

【子育ては保育園と学校が面倒を見ます】

 私は学校や保育園・幼稚園があまりにも多くのものを背負いすぎてきたことに批判的ですし、いま学校に求められているものの多くは整理されるべきだと思ってもいます。しかし一方でマスコミやSNSに出て来る次のような意見に、素直になれないことも事実です。
 例えば、
「早朝から登校させ、放課後はいつまでも校地内をうろついている。教師にも勤務時間というものがある以上、それ以外の時間は家庭の責任で家に置いておくべきだ」
「しつけは家庭の問題だ。しつけは家庭に返し、家庭でやってもらうべきことがたくさんある」
「家庭学習を宿題という形で学校が用意し、やらせ、学校が確認するというのは、明らかにプライバシーの侵害である。家庭学習は必要に応じて親がやらせるべきだ」
「スポーツや芸術を、教員の犠牲を前提にただでやってもらう時代は終わった。やらせたいならきちんと対価を払い、親の送り迎えでやるべきである」

 いずれも学校や教師の責任の範囲を明らかにし、それ以外を親に任せようというもので、筋としては反論の余地がありません。しかし筋はそうであっても、現実問題としてはそういう言い方で突っ撥ねて通るものだろうかという思いもあるのです。

 保育園の待機児童問題をみても分かるように、国も地方自治体も、子どもを産み、育てる環境づくりのためならかなりのことをします。
 国や自治体は子育てや教育に大いに関わっていきます、その代わり夫婦ともに働きに出て、子どもをたくさん産んで育ててね――すでに政府はそうした方針のもとに動いています。そんな現状で子どもを親に返そうとする考え方が、通るはずがないじゃないかと思ったりもするのです。
(この稿、続く)