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「実資(さねすけ)という重石、ふたつの宮中サロン」~今さら大河、今から大河④

 「光る君へ」の時代には大勢のたおやかな男たちがいた、
 腹の座った武骨者もいた。
 女たちは宮廷サロンで賑やかに自らを磨く。
 しかもそれらは極めて狭い範囲で起こったことなのだ、
 という話。(写真:フォトAC)

【今までに来た人】

 これまで5カ月余りのNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場した人物を「文学・芸術に関わる人のみ」と限定して並べると、まず藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは:「蜻蛉日記」、歌人、〔財前直見〕)、赤染衛門(あかそめえもん:歌人、〔鳳稀かなめ〕)、儀同三司母(ぎどうさんしのはは・高階貴子・高内侍:歌人、〔板谷由夏〕)の三名。
 もちろんまひろ(紫式部、〔吉高由里子〕)もききょう(清少納言、〔ファーストサマー・ウイカ〕)もここのところ出ずっぱりですが、ふたりともまだ源氏物語枕草子も書いていませんからいちおう横に置いておきましょう。

【忘れられた男たち】

 それよりも大切な人たちがいます。私は美しい女性ばかりに目を奪われて、有能で実績ある男たちのことをすっかり忘れていました。完全な失態です。
 まず挙げるべきは藤原公任(きんとう)。道長を支えた四納言(しなごん)のひとりで和歌・漢詩・管弦のすべてに優れ、ドラマで町田啓太さんが演じるように美貌の人でもありました。小倉百人一首に名を残しています*1

 同じく四納言のひとりで和歌ではなく「書」で名を遺したのは藤原行成(ゆきなり・ぎょうせい:書家、〔渡辺大知〕)です。三蹟のひとりとされています。
 高校の日本史では9世紀の書の達人として三筆(嵯峨天皇空海橘逸勢)を挙げ、10世紀の達人として三蹟小野道風藤原佐理藤原行成)を挙げています。大学入試にむけての勉強ではまるっきりの棒暗記で、6人のうち多少なりとも業績を知っているのは当時も今も空海小野道風(とうふう)だけ。しかも後者については「花札の雨の20点に描かれている、柳に飛びつくカエルを見ているオジさん」といった程度の知識しかありません。
 道風はそこまでですが、藤原行成については幸いなことにこれからドラマを見ながら勉強することができます。楽しみにしましょう。

藤原実資という重石】

 お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次が演じる藤原実資(さねすけ)は四納言の人々とはだいぶ雰囲気が違います。有職故実(ゆうそくこじつ:宮中の歴史・法令・風俗・習慣などのすべて)にやたら詳しく、道長が道に外れたことをしようとすると必ず割って入って、痛烈に批判します。
「そんなやり方は前例にはない!」
 たぶん口癖はそれです。
 最高権力者となった道長にもおもねることなく、正しいことは正しいと言い、間違ったことは大声で批判して止まない、そうした一貫した態度は一部の人からは熱烈に支持されました。しかし面倒くさい人には違いありません。
 実資を見ていると西暦30年ごろのパレスチナで、ユダヤ教会の中心にいたパリサイ人(びと)に対して「聖書にはこう書いてある!」といちいち突っかかって行ったイエス・キリストを見るような思いです。ほんとうに面倒くさく、道長にしてみれば「目の上のたんこぶ」みたいな人、常に引っかかる重石です。

 しかし潰そうと思えばいつでも潰せただろう実資を、最後まで宮中に残して離さなかったことは、最終的に道長の利益になりました。権力者は自らの暴走を防ぐシステムや人をそばに置いておかないといつか必ず破滅します。今後「光る君へ」が実資をどう描くか分かりませんが、楽しみです。
 彼の書いた日記「小右記」は、道長の時代を知る超一級の史料だそうです。確かに細かなことにこだわって、ねちっこく記録に残しそうな人です。秋山竜次の背格好・体型も、平安貴族にふさわしいみたいで私は好きです。

中宮定子と中宮彰子のふたつのサロン】

 さて、今後ドラマに出てくるはずの百人一首歌人については、どうなっていくのか――。高校時代の復習とドラマの予習をかねて見て行きましょう。
 
 長徳の変の結果、兄・伊周(これちか:三浦翔平)と弟・隆家(たかいえ:竜星涼)が罪人となった中宮定子(高畑充希)は、髪を下ろして仏門に入ってしまいます(ここまでが19日の放送)。しかしそのときすでに妊娠中だったこともあって夫である一条天皇の想いは深く、やがて定子は仏門に入りながら隠れて天皇のもとに戻るという厄介な状況に陥ります。あまり褒められた話ではありません。
 しかし夫婦べったりだった以前よりは天皇との間に隙間ができ、それに乗じて貴族たちは娘を入内させようとして道長柄本佑)も当時11歳の長女彰子を入内させます(999年)。
 このとき一条天皇は19歳、定子は22歳になっています。同じ天皇の二人の后ですから、それだけを考えると何となく仲が悪そうですが、11歳と22歳の姉妹みたいな二人はけっこう仲よくやれたみたいです。わずか2年後、定子は3人目の出産をした直後に急逝してしまいますが、中宮彰子にとっては仲の良いお姉さんが亡くなってしまった、その程度のことだったのかもしれません。
 
 ちなみに中宮定子が亡くなった1001年ごろに清少納言は宮中を去り、紫式部は1005年ごろ道長に引き立てられて中宮彰子の元に来ます。清少納言紫式部は会ったことがない、という話はその事実に由来するのですが、当時の貴族社会は五位以上が150人~200人程度、家族全員を集めても1000人以下ですから、ふたりの有名人が顔を合わせる機会はいくらでもあったはずです。誰かが面白がって引き合わせた可能性も十分考えられます。
 
 一条天皇は1011年わずか31歳で病死しますが中宮彰子は長命で、86歳まで生き続けます。それが意味するのは、24歳で亡くなった中宮定子の周辺の人間関係が中宮の死とともにあっという間になくなってしまったのに対して、彰子の周辺の変化は非常にゆっくりだったということです。そのために和泉式部(いずみしきぶ)だの伊勢大輔(いせのたいふ)だのといった才女が紫式部の同僚であり、和泉式部の娘の小式部内侍(こしきぶのないし)は母と一緒に彰子のもとに出仕し、紫式部の娘の大弐三位(だいにのさんみ)も母のあとを継いで彰子の下で働くといったことが起こり始めるのです。
(次回、最終)

*1:大納言公任
滝の音は たえて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ
(滝の水音が聞こえなくなってから長い年月が経ってしまっているけれども、その滝の名前だけは世間に流れ伝わり、今でもやはり聞こえてくるのだ)