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「いまの農家も知らない江戸時代の農業の常識」~意外と気づかない農業の当たり前③

 単純で分かり易い農業の世界で、
 人はこころ病むことがない。
 しかし300年前はさらに単純で分かり易かった。
 現代は農業と言えど、もはや聖域ではないのかもしれない。
 という話。(図版:歌川広重東海道五十三次」より「原 朝之富士」)

【再々掲:百姓はこころ病まない】 

 たびたび書いていますが、百姓*1仕事というのは基本的にとても分かりやすい一面を持っています。それは失敗したときに悪いのは、自分か気候か、二つにひとつしかないということです。
 作物が病害虫でだめになったら、悪いのは適切な予防措置を取らなかった私です。作物に罪はありません。遅霜や台風に潰されたら、ある程度は対応が不十分だった私のせいですが、それ以上は気候のせいでしょう。作物がどうこう言われる筋合いはありません。
 
 ところが人間相手の仕事や人間関係そのものはそういう訳には行きません。
 大昔、私が好きな女の子にフラれたのは、必ずしも私が悪かったからではないでしょう(私が悪かった場合も多々ありますが)。たまたまそのころの彼女につき合っている男性がいたからかもしれませんし、勉強や仕事に夢中でそれどころではないということだったのかもしれません。私が一方的に反省して恋愛の勉強をし直すといった話ではなかったのかもしれないのです。
 商談が上手くまとまらなかったり、思ったように出世できなかったりするのも同じです。こちらとあちらの双方に要因があるので、その組み合わせはほとんど無数です。人間相手のことはだから厄介なのです。
 
 私が生きてきた中で人生の先輩から教わったいくつかの大切な言葉、そのひとつは、
「百姓はこころを病まない」
というものですが、とてもよく分かります。人間関係のやり取りはこちらもあちらも動きますが、作物相手のやり取りでは不確定なのはこちらと気候だけです。うまくいかないときは自分が頑張るか、諦めるか、それだけですみます。実に単純で分かりやすい世界です。
*1:私は「百姓」という言葉に大変な思い入れがあって大切に使っています。理由についてはこのブログのどこかで話しているはずです。

【現代、もはや農業も聖域ではないのかもしれない】

 もっともあまり「単純」だの「分かり易い」だのと繰り返し言うと、本物の農家から文句が出るかも知れません。私は「(農業は)失敗したら悪いのは自分か気候かふたつにひとつ」と再三話していますが、現代の農業は必ずしもそうではないからです。
 特に野菜や果物・花卉は相場に左右されやすく、「豊作貧乏」という言葉があるように良いものをたくさん作ればいいとは必ずしも言えなくなっています。肥料や燃料の価格変動を横目に、生産の品目や時期も考えなくてはなりません。そうなると人間関係以上に気を遣わなくてはならない場面も出てきます。

「百姓はこころを病まない」という言葉を頼りにいつも「健康な生活」を感じてきましたが、それは私のように商品作物をつくらない、純粋な家庭菜園ティストだから言えるのであって、“農業経営”に携わっている人たちはそれどころではないのかもしれないのです。それが現代で、農業と言えど聖域ではなくなっているのかもしれません。

 ではもっと大昔、商品作物が大量に出始めるはるか以前の、江戸時代前期くらいまで遡ってみたらどうでしょう。そこには現代となっては農家の人ですら知らない「農業の当たり前」があるのかもしれないのです。

【江戸時代の農家の当たり前】

 江戸時代の農業生活の特徴のひとつは、人間が天の摂理とともに暮らしていたという点です。
 日の出の30分ほど前、あたりが白み始めて活動ができる時刻になると、各地の代表的なお寺の鐘が三つ続けて鳴らされます。これから時報を告げるよ、という合図です。そのあと短く間が空いて、明るくなった空に6回、「明け六つ」*2の鐘音が響きます。人々はこれを聞いて活動を始めます。
 夕方、人々は陽が沈む前に活動をやめて大急ぎで家に帰り、そそくさと夕飯を食べて片付けます。あたりが暗くなると「暮六つ」の鐘が鳴り、人々は眠りにつくのです。
 労働時間が夜明けと日没によって決まるとなると、6月末の夏至のころは労働時間がべらぼうに長く、クリスマスの近辺の冬至前後はちょっと働いてすぐに眠るという生活になります。夏至のころはさすがに大変そうですが、動物としての人間の生き方として、これほど理にかなったことはありません。それが昔の農家の当たり前でした。

 食事は1日2回、朝と夕方に食べます。一汁一菜が原則ですから必然的にご飯の消費量が増えます。
 平均的な大人で1食1合。1日で3合のご飯になります。1年では(3合×365日)でおよそ1000合。1000合は100升、100升は10斗(と)、10斗は1石(こく)。つまり平均的な大人が一年間に食べるお米の量が1石で、例えば加賀百万石は100万人分の食卓を賄えるだけの米の取れる国ということになります。
 江戸時代の初期は1石の米が取れる田の広さを1反、1石の米の値段が1両でした。なぜそんなにうまく数字が合ったのかというと、合ったのではなく、そう決めたから同じ1なのです。その後1反の田から採れる米の量は飛躍的に増えますし、コメの値段は相場ですからどんどん変化して数字の整合は消えてしまいます。しかし「江戸時代の初期、1石=1反=1両」は、頭の隅に入れておくと便利な話です。

 ついでに「1食1合、一日3合の米」と言うと、「江戸時代のお百姓はお米、ほんとうに食べていたの?」という話になりますが、国民の85%にも及ぶ農民がつくったお米の50%(五公五民として)を取り上げて全部食べたら、武士はあっという間に肥満で病気になってしまいます。でもそんなこと、ありそうにないでしょ?
 実は税として入った米は武士に給与として渡されたあと、ほとんどが売りに出されたのです。米を売って得た金で、武士が買わなくてならないものはたくさんありました。
 では誰がその米を買ったのか――当然それは町民(人口の5%ほど)と農民です。地域差はありますが農民も普段はコメの飯を食べていたのです。ヒエやアワは非常食として栽培していたもので、飢饉になると食卓に並びますが、年中そればかりを食べていたわけではありません。
 もっとも飢饉以外にも食事を取れないときがあって、雨で農作業ができなかったりすると1食または2食まるまる食べないで済ませることもあったようです。《働かざる者、食うべからず》を本気で実践していたらしいのです。それも昔の農家の《当たり前》でした。
*2:真夜中の「九つ」を起点として「明け六つ」までを三つにわけ、「九つ」の次を「八つ」「七つ」。「明け六つ」から太陽の南中する時間も三つに分けて「五つ」「四つ」の鐘を鳴らします。「三つ」以下はなく、太陽が南中する時刻を再び「九つ」として「八つ」「七つ」と下げていきます。なぜ「九つ」から下げて行って「四つ」未満がないのかという点については、さまざまな説明がありますが、吉数である「奇数」の最上位「九つ」を起点として、次が2倍の「18」その次が3倍の27と計算して行って、その次が36、45、そのまた次が54――。ところがそれだけの回数、時報の鐘を鳴らしていたらうるさいばかりか鳴らしている間にどんどん時間が経ってしまいます。そこで1の位の分だけ鳴らして「9」「8」「7」「6」「5」「4」となったという説が最も有力です。

【変化する現代農業】

 私には専業農家で育った子には良い子が多いという、経験に裏付けられた思い込みがあります。もちろん《百姓はこころを病まない》の裏返しです。
 中でも一番いいのが花卉農家の子どもたちで、カーネーションなどは母の日直前に出荷するのとそれ以後の出荷とでは価格が天と地ほどに違ってしまいます。そこでいよいよ切羽詰まると子どもたちにも手伝わせて、夜中の11時~12時といった時刻まで箱詰め作業をすることがあるらしいのです。ですから花卉農家に育った子どもは“ここぞ”というときに集中的な学習ができる――とそんなふうに思っています。実際に私の知る子はそうでした。

 ただそれも、農業が資本主義経済にがっちり組み込まれて以降のことで、300年前の農村にはとんでもなくゆったりとした時間が流れていました。変化の少ない時代、もっとも多くの知識を持っているのは年寄りです。70年前の知識だって役に立つのですから。だから年寄りが大切にされました。
 変化の激しい今のような時代、もっとも役立つ知識は若者が独占しています。若者は常識を次々と書き換えて行くのが特徴ですから、「農業の当たり前」も急速に変わりつつあるのかもしれません。
(この稿、終了)