カイト・カフェ

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「人々を魅了する呪術の世界-密教」~父が子に語る仏教概論⑤ 

 庶民は苦しんだが高級貴族がこの世の春を楽しんだ平安前期、
 さっぱり分からないが見かけが派手で何かおどろおどろしい、
 そんな仏教が流行する。
 偉大な指導者に恵まれた密教は、人々を魅了した。
という話。

f:id:kite-cafe:20200213083813j:plain(「京都御所PhotoACより)

 仏教の勉強をしたいという息子のために、簡単な授業を始めました。

 個人的な家庭内の勉強ですが、もしかしたらこれから京都・奈良に修学旅行で生徒を引率する先生や歴史学習のバックグラウンドとして仏教の知識が欲しい先生、あるいは教員でなくても“ちょっと仏教をかじってみようかな”と軽い気持ちで思っている人にも役に立つのではないかと思い、しばらくここで話してみようと思います。

【平安の遊び人一族と教育ママ】

 子どものころ、自分の家の祖先は貴族だと教えられて何か誇り高く、気分が高揚したものです。しかし大人になってきちんと勉強したら、貴族というのは碌でもなく、いちおう政治家ではありますが“朝廷”の名の通り、政治なんて朝のうちに済ませて後は遊んでいるだけの暇人たちでした。その“朝だけの政治”も民衆をいかに収奪するかが主要な課題で、聖武天皇光明皇后のような気高さの欠けらも感じられません。

 もっともそのころには私の祖先が貴族だなんていうのはまったくの嘘っぱちで、貴族というよりは山賊の類だと知っていましたから、貴族が碌でもないことはどうでもいいことになっていました。

 平安時代の上級貴族の多くは、荘園から上がってくる富にものを言わせ、和歌だの音曲だの舞だのにうつつを抜かし、儀式を限りなく複雑にして楽しんでいました。源氏物語や女官たちの日記がやたら細部にこだわって、着物の柄だの人の立ち振る舞いだのの記述に詳しいのも、きちんと記録しておかないと翌年の儀式に差しつかえると考えたからなのかもしれません。その記録をもって我が子にきちんと教えておかないと、子の出世、ひいては自分の老後に関わると感じていたからです。
 その意味では、平安の教育ママたちは今よりも大変でした。母子の生活そのものがかかっていたわけですから。
 目指す目標は摂政・関白、あの「この世はまるですべて私のもののようだ。満月がほんの僅かもかけていないように」と詠んだ藤原道長のような人物です。

 

密教は分からないところがいい】

 貴族たちは生粋の遊び人でしたから、多くは難しい学問などまっぴらでした。聖徳太子聖武天皇は一面で真面目な仏教学徒でしたが、平安貴族はそうではありません。僧侶の難しい話を聞いたり、光明皇后のような無料奉仕に熱心になれたりするはずもない。
 もちろんだからといって宗教を疎かにできるほどの近代人であったわけでもなく、無病息災や地位保全、一族の繁栄を願わないわけでもありません。
 するとよくしたもので、彼らの要望に応える仏教が現れてきます。真面目な勉強や厳しい修行を強いることなく、金の力だけで救いをもたらしてくれる宗教――それが密教です。

 密教というのは教団の内部だけで、秘密の教義と儀礼を師から弟子へと口述で伝えていく仏教のことで、神秘主義的、象徴主義的な教義が中心になっています。神秘体験を重視し、瞑想を重んじ、曼荼羅や法具類、多種多様な仏像といったきらびやかな装飾で人々を幻惑する側面を持ちます。
 釈迦は、
「自分の悟った真理を説いても人々は理解できないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだ」
と考えましたが、密教はそうした部分を色濃く反映したと言えます。

 日本では空海真言宗最澄天台宗が代表的な密教で、現在も空海に由来する京都の東寺に行くとそのきらびやかな世界、ある種おどろおどろしい雰囲気が体験できます。

 私も密教を知りたくてしばらく勉強してみましたが、とてもではないが歯の立つものではありません。しかしその難解さ、神秘性は少し触れただけでもピリピリと伝わってきてそれ自体が魅力として感じられます。おそらく平安貴族の心をとらえたのも、同じものだったのでしょう。

 即身成仏(生きたままで仏《覚醒者》になれる)を標榜していますから僧には千日回峰行のような超人的な修行を求め、護摩を焚いたり、後の忍者のような複雑な印を結んだり、大きな声で呪文(マントラ)を唱えたりと、異様な光景が繰り広げれられますから、もうそれだけで大きなご利益が得られそうな気がしてきます。

 貴族たちは進んで土地を寄進し、財力に任せて巨大寺院を造営したりしました。
 こうして平安時代前期は、真言宗天台宗という二大密教によって導かれて始まるわけです。

 

【ちょっと切羽詰まってきた】

 西洋で最初の千年紀を終えるころ、日本では平安時代も後期に入ってくると、少し事情が変わってきます。全盛を極めた藤原摂関家の勢いが止まり、貴族社会の足元がぐらつき始めたのです。

 道長の子の頼道は父に倣って次々と娘を宮中に入れますが男子に恵まれず、刀伊の入寇平忠常の乱・前九年の役など次々と戦乱が起こると、ついに頼通と縁の薄い後三条天皇が即位し、藤原氏の権勢は急速に衰えていくのです。

 おりしも仏教が予告するこの世の終わりの始まり――末法入年(1052年)は目の前に迫ってきました。もう密教僧侶の呪術を見ているだけでは済まなくなり、自らも仏に働き掛けなくては気が済まなくなる時代が来たのです。
 そうした要望に応えたのが浄土教でした。

(この稿、続く)