カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「親ができないなら、学校がやるしかないじゃないか」~誰かが穴を埋めなければ子どもは助からない

 孫1号のハーヴが、父親と一緒にマラソン大会に出た。
 DCDで運動の苦手な子に、少しでも自信をつけたいという。
 そんな対応をしてもらえる孫1号は幸せだ。
 しかしそうでない子はやはり、学校がみるしかないじゃないか。
という話。(写真:シーナ・SuperT)

【孫1号のハーヴ、マラソン大会に出る】

 正月に会って以来、孫たちを見ていないので寂しくなって、娘のLINEに“何でもいいから動画を送ってくれ”とメッセージしたら、まとまりのない10本あまりが送られてきました。そのうちの3本ほどは先月立川市で行われた「ベジタブル・マラソン」とかいう大会に、孫1号のハーヴと父親のエージュが出場したときのものでした。
 
 ハーヴについては生まれたときからずっと折りに触れて書いてきましたが、仮死状態で生まれたこと、寝返りを始めとする運動発達に遅れがあったこと、その割に知的関心は強く、計算や漢字、地名などに対する興味は人一倍強かったこと。やや子どもらしさに欠け、その分とても育てやすかったこと、などを記録してきました。いま考えると怪しいことばかりでした。
 そしてこの一年あまりは、DCD(発達性協調運動障害)を持つ子として、ハーヴの言動を意識することが多くなってきました。一番最近の記録は、昨年の9月19日以降のものです。(*1

【おさらい、DCD】

 DCDは簡単に言ってしまうと、次のように説明できます。
「サッカーで敵のゴール前に迫ったところ絶好のパスが来て、それを思い切り蹴ったら見事にゴールネットを揺らした」
 この時に使った技能は、
1. 「敵の守備に穴を発見する」
2.「ゴール前まで走り込む」
3. 「仲間にパスを要求する」
4. 「自分のところに飛んでくるボールを見る」
5. 「ゴールキーパーを見る」
6. 「蹴り抜く角度と強さを計算する」
7. 「つま先でボールをける」
8. 「万が一のためにさらにゴールへ詰め寄る」
といったものです(正確ではないかもしれませんが)。

 DCDの子はそのひとつひとつの能力には遜色はないのです。走ることも見ることも蹴ることできる、ただ「見ながら走って蹴る」ということが苦手なのです。三つを同時に行う調整能力に問題がある、だから日本語では「協調運動障害」、英語では「Coordination Disorder」。コーディネーションの障害なのです。
 ハーヴの場合、1年生になってもペットボトルの蓋が開けられませんでした。「強く握って」「回す」という二つの作業を同時に行うコーディネートが苦手なのです。
「発達性(Developmental)」を頭につけるのは、これが「発達障害」の一部であることを明らかにするためだと思われます。

【問題の所在】

 「だったら、サッカー選手にしなけりゃいいじゃん」という乱暴な言い方は、あながち間違いとも言えません。Jリーグを目指すと言ったら反対する、マジシャンになりたいと言い出したら大反対する、それ済む面もないわけではありません。苦手なことはしないで済むように生きればいいのです。(*2

 ただ、子どものうちは全方位での活動が要求されます。ハサミが上手く使えなくても図工や家庭科の時間には持たされます。縄跳びや跳び箱がうまくできなくても、やる前から忌避してはいけません。もしかしたらリコーダーの演奏でも人に後れを取って切ない思いをするかもしれませんが、やらないわけにもいかないでしょう。
 それらがうまくできないことも大変ですが、できないことによって失われる自己効力感、有能感、自己肯定感――そちらの方が、よほど恐ろしいのです。
 
 ですから上手く行かないと予測されるときは「予め下駄をはかせておく(前もって練習しておく)」とか、「できることで補えるようにしておく(サッカーは下手だけど、水泳は得意)」とか、何等かの対応をしておかなくてはなりません。

【ハーヴは幸せ者】

 LINEに送られてきたマラソン動画に、妻が、
「ハーヴ君、最後まで一人で走り切れたね。スゴイですね」
とメッセージを送ったところ、娘のシーナからは、
「運動に苦手意識が強いハーヴなんだけど、
 長距離は自分は得意かもしれない、
 と自信を持ち始めたので
 最近いろいろマラソン大会参加しています」
と返信がありました。

 長距離走はあまり巧緻性を必要としない競技です。能力がなくても努力と我慢だけである程度の成績を収めることができます。私も子どものころは得意でした(他はまるでダメだった)。
 そんな長距離走に、
「自信を持ち始めたので、最近いろいろマラソン大会参加しています」
と積極的に参加を申し込み、一緒に走ってくれる親――そうした親を持っているだけで、すでにハーヴは幸せ者です。親ガチャの勝ち組です。そしてそんな親の片方(母親の方)を育てたのが自分だというのも、私の密かな誇りです。

【学校が親の肩代わりをするのも仕方ない】

――と、そんなふうに自慢しながら文章を閉じようとして、やはり何かが違っている感じがします。私は自慢したくてハーヴのマラソン大会の話をし始めたのではないのです。

 ハーヴが父親のエージュと一生懸命走り、母親のシーナと弟のイーツが大声で応援する、その微笑ましくも美しい姿を動画で見ながら、まず思ってそのあともずっと頭の中にあったのは、シーナたちのことではなく、
「世の中にはこういう支援が受けられない子がいる」
ということでした。
 問題や障害に気づいてもらえない子たちがいる、気づいても対応してもらえない子がいる、いちいち間違った対応しかしてもらえない子たちもいる、ということです。

 教員の働き方改革についてさまざまに言われる中で、
「それは学校の仕事ではない」
「それは家庭がすべきことだ」
といった言葉にしばしば出会います。家庭教育が一番なのは当然です。しかしそうやって家庭に返せば、親は実際にやってくれるのでしょうか。やれる能力はあるのでしょうか?

 学校には、小学校英語だのプログラミング学習だの(以下、思いつきの6項目を全部省略*3)といった平成以降に増えた埒もない仕事が山ほどあります。働き方改革はそうしたものを大胆に削減し、人間を増やして行うべきで、教育力のない家庭の肩代わりをする仕事は、やはり減らしてはいけないように思うのです。

*1:「誕生日が過ぎても使える『誕生日プレゼント引換券』の話」~DCD(発達性協調運動障害)、子どもの姿が見えてくるとき① - カイト・カフェ以降

*2:ただし大人になると縄跳びや跳び箱をする機会こそ少なくなりますが、ひげ剃りや化粧、料理や家事、自動車運転、タイピングや細かい手作業など、年代特有の課題が生じることもあります。

*3:国学テだのキャリアパスポートだの、指導要録や通知票の多すぎる記述欄だの、教員評価だの学校評価だの、総合的な学習の時間だの、