カイト・カフェ

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「決めるのは私たちで、責任を取らされるのは子ども」~戦争は始まったらおしまいだ③

 満足はできなくとも前提とするしかなかった世界のあり方。
 しかし今、それが根底から覆されそうになっている。
 さて、これからの日本をどうしていくのか――。
 しかしその議論は、大人が進めて子どもが責任を取らされるのだ。
という話。 

f:id:kite-cafe:20220408102735j:plain(写真:フォトAC)

【納得できなくても受け入れざるを得ない「世界のありかた」】

 2月21日、ロシアのプーチン大統領ウクライナ東部のドネツク州とルガンスク州の一部地域の独立を承認してこの地域への軍の派遣を命令した問題について、国連の緊急会合が開かれました。その席で行われたケニアのキマニ国連大使のスピーチが、非常に感動的なものとして世界に伝えられました。


 内容を簡単に言うと、次のようなものです。
「私たちアフリカの多くの国々は、ヨーロッパ列強の帝国主義の終焉によって生まれました。しかしそのとき引かれた国境線は私たちの意思ではなく、イギリス・フランス・ポルトガルといった植民地本国の人々の都合によって引かれたものでした。そこには民族・文化・言語といった深い絆によって結ばれたアフリカの人々への配慮など、微塵もありません。
 しかし私たちは黙ってそれを引き受けたのです。なぜなら民族・人種・宗教の同質性にこだわって国境線を引こうとすれば、いまもなお血なまぐさい戦争を続けていかなければならなかったからです。
 もちろん同じ仲間と国を持ちたい気持ちは分かります。しかしケニアはそうした憧れを力で追求することを拒否したのです。それは国境に満足しているからでなく、平和のうちに築かれる、偉大な何かを求めたからです」

 すべての人々が満足できる国境線などありえません。民族だけで国をつくればそれこそ無数の飛び地ができ、そこに公平な資源があるはずもありません。宗教で国家をつくったにしても宗教間、あるいは宗派ごとの対立は別問題です。
 もちろん世界がひとつになって国家というものが解消されれば別ですが、いまのところそれは夢物語です。東西あるいは南北に分断した国家の統一ということはあるにしても、私たちは第二次世界大戦というたいへんな犠牲の上にできた現在の国境を受け入れ、その中で個別の問題を解決していくしかないのです。

 同質の仲間だけで楽しく豊かな生活を送って行きたいという欲望は、箱の中に納め、封印されました。それが20世紀後半に私たちが到達した結論で、人類の智恵だったのです。
 今回ロシアがやったことはその知恵の箱の封印を解き、開けてはならないパンドラの箱を開いてしまったということなのです。

 

パンドラの箱は開いた。さてどうするのか】

 この一カ月半で、日本人の世界観・国家観はすっかり変わってしまいました。
 NHKが再認識させた「日本は核兵器をもった三つの権威主義国に直面している」という状況は民放でも扱われ、昨日の情報番組では日本国内にウクライナのような核シェルターがないことを憂えたり、迎撃ミサイルに関する特集が組まれたりしています。これからは日本の軍備拡張といった話は、今までよりもずっと楽にできるようになります。

 一部でささやかれている「ソ連崩壊の際に核兵器さえ手放さなければ、ウクライナもロシアに攻められることはなかったろう」という話は、日本の核兵器所有への呼び水になりそうです。実際に今日の朝刊に載っている月刊『文芸春秋』の広告では、最初の予告記事が「日本核武装のすすめ」、二番目の記事は『「核共有」の議論から逃げるな』です。
 『文芸春秋』では極端な主張を掲載した翌月に反論記事を載せるというやり方がしばしば行われますから、「核武装論」は今も極端な話なのでしょう。しかし日本の一流文芸誌に「核武装論」の文字が躍ることはこれまでなかったことです。こうして一歩、駒が進みます。

 徴兵制度の再開などといった話も今のところ出てくる余地はありません。しかし退役自衛隊員の再訓練だの体験入隊の拡充などと言った話はいくらでもできるようになり、その先に徴兵制度も見えてくるのかもしれません。

【戦争を決めるのは私たちで、責任を取らされるのは子ども】

 問題は大人として(親として・教師として・先輩として)、子どもたちの未来に何を用意するのかということです。
 国際関係や日本の安全保障については、これから勉強して行けばまだ間に合います。しかし何もせず、忙しさに取り紛れてボンヤリと日々を過ごせば、現在のロシアの一般国民のように、あるいは太平洋戦争中の日本国民のように、唯々諾々と政府に導かれ、しないで済む戦争の加害者になったり被害者になったりして後々悔やむことになるのかもしれないのです。
 もちろん責任を取るのが私なら良いのですが、戦争ではたいていの場合、決めるのは私たち大人であり、責任を取らされるのは子どもたちです。