一昨日、「ほら吹き男爵の冒険」について話したあとで、
他に読み聞かせをしておくべき本はなかったのか考えたら、あった。
「幸福な王子」だ。
私も王子のようでありツバメのようであり、そして神様のようでありたかった。
という話。(写真:フォトAC)
【幸福な王子】
「幸福な王子」はオスカー・ワイルドが1888年に出版した子ども向け短編小説集に納められた一編です。
街の中心にそびえたつ王子の銅像は、人々の不幸をその目で見ながら、無力で何もできずにいることを悲しんでいた。そこに南に向かうツバメが翼を休めるために降りる。
王子は眼や剣にはめ込まれた宝石を貧しい人々のもとに運ぶことを依頼し、ツバメは快く引き受けるが、貧しい人、苦しむ人々はまだ大勢いた。街中を飛び回ったツバメは両眼をなくして目の見えなくなった王子にさまざまな話を聞かせる。王子はツバメに、全身から金箔を剥がしてその人たちに配るよう依頼する。やがて分け与える宝石も金箔もなくなり、南に向かって旅立つ時期も逸したツバメはその足元で死を迎える。
人々は惨めな姿になった像を鋳つぶすが鉛の心臓だけは溶けず、死んだツバメとともにゴミだめに捨てられた。
天国では下界の様子をみていた神様が天使に、
「この街で最も尊いものをふたつ持って来なさい」
と命じ、天使はゴミだめから王子の鉛の心臓とツバメの遺体を持ち帰ってきたのだ。
この話の肝は隠された善行です。そしてだれも気づかない善き行いを、神様だけは見ていたという話です。
【私のしようとしてきたこと、できなかったこと】
世の中には善き行いをするたびに、それを隠さなくては気が済まない人たちがいます。誰かのために何かをしたら、その場から後ろ向きにホウキで掃きながら去るのが当たり前と考える人々です。
学校にもそんな子どもはたくさんいて、いつも言っていることですが、下足箱の靴が常にそろっていたら、それはクラスの中に気のつくたびに直している縁の下の力持ちがいるからに違いありません。当番でもないのに、下校時の少し乱れた机の列を直して帰る子や、なんの躊躇もなく床に落ちているゴミを拾ってゴミ箱に入れる子もいます。
私は45年も経って初めて開かれた自分の中学校の同窓会で、3年に渡って教室に花が絶えないよう気を配っていた女生徒がいたことを知りました。
私自身も、誰かを助けたり善きことをしたりした場合は誰にも気づかれないよう配慮します。見られると善行の価値が減るように感じるからです。しかし「幸福な王子」の神様のように、誰かの隠された善行を注意深く見つけ出し、それとなく讃えたり支えたりといった仕事は十分してこなかったように思うのです。
またひとつ、人生に心残りのあることに気づきました。