よいことをしたら

 教室の前に張ってある「よいことをしたら、けっしてひとにはなしてはいけません」の掲示について、中林先生が学級通信で扱ったのを見せて下さいました。ありがたいことだと思います。6月の道徳の時間に「はきものをそろえる」で扱ったものですが、その「はきものをそろえる」ことの大切さを教えてくれた以前の校長先生が、そのときいっしょに話してくれたのがこの「よいことをしたら、けっしてひとにはなしてはいけない」です。

 子どもは誉めて育てろという言い方があり、それは当たり前なのですが扱いを間違えると「誉めないと何もしない子」が育ってしまうことがあります。中国語で「がんばれ!」は「加油」というのだそうですが、常に給油し続けないと善行の燃料切れになってしまうような子どもたちです。

 しかし私たちにしても、いつも必ず子どもの良い点をとらえているわけではありません。注意していても見落とすことはありますし、例えば「友だちの靴を揃える」などといったことはその都度誉めてやるようなことではありません。一ヶ月、二ヶ月、あるいは一年も続けて初めて偉大な価値をもつ行為です。それを毎日誉めろといっても無理なので、そこでどうしても「誉められなくても善行を続ける子ども」の育成が必要になってきます。

 それが、「よいことをしたら、けっしてひとにはなしてはいけません」なのです。

「開運 なんでも鑑定団」の中で鑑定士の中島誠之助さんが言っていたのですが、骨董収集家の間には「目腐れ」という概念があるのだそうです。これは「人に見られると骨董の価値は下がる」という考え方(あるいは感じ方)です。科学的根拠はありませんが、秘仏秘宝が隠されるから心理的価値を高めるのと真反対で、みんなの目に触れるとありがた味や感動が薄れ、そのことで骨董の価値が下がるというのです。

 善行も同じです。「よいこと」は黙っているからこそ価値があるのであって、喋った瞬間、そこに傲慢や不遜、「誉めてもらいたい」という野心や自慢が透け見えます。そうなると誰が聞いても感激するような善行の珠に、キズがつきます。それは決定的なキズです。

「よいことをしたら決して人に話してはいけません」の背景にはそうした「善行は傷つきやすい」という感じ方がなくてはなりません。

 しかし子どもにはまだまだ難しいので、私はこんなふうに付け加えています。

「大丈夫、話さなくても人は絶対に見てくれる。一回や二回では見つからないこともあるけど、ずっと続けていれば誰かが気付くに決まっている。そしてだれも見ていないときでも、お天道様は必ず見て、覚えていてくれるよ」