「愛する人のため、賢者は何を犠牲にしたか」~愛は数値化できる

 「愛は惜しみなく奪う」というがそうではない
 愛は惜しみなく与えるものだ――しかし何を?
 それはその人の持っているものの中で最も貴重なもの
 現代においては「時間」だ

という話。

f:id:kite-cafe:20211224071336j:plain(写真:フォトAC)

【О・ヘンリー作『賢者の贈り物』】

 クリスマス・イブですから良い話をします。О・ヘンリーの『賢者の贈り物』です。
 それなら知っている、今さらなんだ、という人も多いと思いますので、「О・ヘンリー作『賢者の贈り物』に関わる物語」ということにしましょう。
 しかしその前に『賢者の贈り物』そのものについておさらいしておきます。こんな話でした。

 クリスマス・イブの朝、新婚の妻であるデラは深い哀しみの中にあった。明日はクリスマスだというのに夫へのプレゼントを買う金がないのだ。細かく貯めた1ドル87セントがすべてだった。
 この家には二つの宝物があった。ひとつは夫が祖父の代から受け継いだ金時計、ただしそれに鎖はついていない。もうひとつはデラ自身の、腰まで伸びた美しい褐色の髪。
 その長い髪を姿見に映して、デラは長いこと思案していたがやがて決心すると街へ出かけた。ヘアサロンで長い髪をバッサリ切るとちょうど20ドルで売れた。その金を握って今度は別の店を次々と回り、ついに夫の時計にふさわしいすばらしい鎖と出会い21ドルで買う。デラは残りの87セントを握りしめて家に戻った。
 その夜、帰宅した夫がデラを見たときの表情は、彼女の想像していたどんなものとも違っていた。怒りでもない驚きでもない。拒否でも恐怖でもない不思議な表情――デラは精一杯の愛情をこめて説明し、言い訳をし、哀願した。あなたにプレゼントするために髪を売るしかなかったと――。
 夫はしばらく放心した後、こう言った。
「ねえデラ、髪型だとかシャンプーだとか、そんなことでキミを嫌いになったりするもんか。どうして僕があんなふうだったかは、キミのために用意したこのプレゼントを見ればわかるよ」
 差し出された包みを開くと、何とそれはデラの美しい髪を飾るはずだったべっ甲細工の櫛だったのである。以前、デラは店先で食い入るようにその櫛を眺めたことがあった。デラは小躍りして叫んだ。
「大丈夫よ。私の髪はすぐに伸びるわ。それより私の用意したプレゼントを見て、あなたの時計につけるための素晴らしい鎖よ。これをつけたら一日に百回も時間を調べたくなるわ」
 その鎖を見ると夫は椅子にどさりと腰を下ろし、 両手を首の後ろに組んでにっこりと微笑んだ。
「ねえデラ、ぼくたちのクリスマスプレゼントは、しばらくの間、どこかにしまっておこう。だって櫛を買うために、ぼくは時計を打っちゃったのだもの」
 二人は互いのために最も賢明な選択をしたのだ。


【愛は時間で測れる】

 この話の肝は、二人が互いのために自分のもっとも大切なものを犠牲にしたということです。デラは自分の愛を表現するのに1ドル87セントではあまりにも少ないと感じました。プレゼントは彼女の用意できる最大のかたちで示さなくてはなりません。同じように夫も、自分の準備できる最大の資金で妻に対する愛情を表現しようとします。それが『賢者の贈り物』の要点です。愛は相手のために犠牲にしたものの大きさで計ることができるのです。

 これを現代に当てはめるとどういうことになるのか。
 持っている貯金のすべてをはたいてルイビトンのバッグを買ってあげる――愛には違いありませんが少し違うような気もします。妻の手術費用を賄うために愛車を売り飛ばす――これだともっと愛に近づきますが、めったに起こることではありません。
 では愛を表現するためにどうしたらいいのでしょう?

 答えは簡単。現代人にとって最も大切なものは金ではなく、多くの場合は時間とエネルギー、特に時間です。したがって自分の大切な時間を――例えば趣味の時間を、遊びの時間を、時には仕事のための時間を、愛する誰かのために惜しみなく差し出す、それこそ最も愛の大きな愛の表現だということになります。

 考えても見てください。恋愛勝負で多くの場合、勝者となるのはマメで言葉巧みな男です。なぜならそれだけの時間とエネルギーを女性に使っているからです。もちろん二六時中彼女のことを考え、悶々と時間を過ごす男性はそれより大きな愛の持ち主であるかもしれません。現代において愛は時間だからです。
 しかしそれでもうまく行かないのは、ひとりで悶々としてもその大きな愛は伝わって行かないからです。伝わらない愛なんてないも同じです。
 また伝わったとしても、その愛を受け入れるかどうかは相手の決めることです。たいていのストーカーは巨大な愛を相手に捧げ尽くしますが、相手が望まないものは受け取ってもらえません。

 恋愛は私の得意分野ではありませんからここまでとしましょう。問題は親子関係あるいは師弟関係です。


【親の愛は、どれだけ貴重な時間を犠牲にしたかで決まる

 人々が貧しかった時代、親が留学のための資金を黙って差し出したりすれば、それは親の愛として伝わります。その金が家族にとってどれほど重要なものか、子どもの方が知っているからです。しかし今も日常的にひもじい思いをしているといった“貧乏が見やすい家”でない限り、金で愛を伝える時代ではありません。ここでも愛を伝える媒介は時間だけです。
 その子に寄り添うためにどれだけの時間を費やしたか、その子の喜びのために自分あるいは仕事のための時間をどれほど犠牲にしたのか、それがものを言うのです。

 例えば日ごろ忙しいお父さんが、運動会の日に何とかやりくりをつけて短時間でも応援に来てくれた、そういう事実があれば、子どもはいつまでも忘れません。共有できるのはその時間だけではなく、のちのち話題にあげられるものです。愛はじわじわと心の中に差し込んでいきます。
 もちろん「日ごろ忙しいお父さんが――」が前提で、年中ヒマなお父さんが運動会に行ってもあまり得点にはなりません。ほかの方法を考えましょう。

 また何が何でもやりくりつけ、運動会の応援に行けという話でもありません。当日どうしても時間が取れないなら予め行けないことを言っておいて、早くから駆けっこの練習などに付き合ってやればいいだけのことです。図式的に言えば、当日5時間の運動会を欠席するなら、予め5回に分けて1時間ずつ付き合えば愛情の総量は変わりありません。
 あとになって失点を回復するという方法もありますが、これだと利子が付きますから5時間では足りないでしょう。丸一日動物園に付き合うとかピクニックに行くとか、何か考えましょう。
 また、この時絶対にやってはいけないことは金で解決することです。何か高価なものを買ってやれば子どもは納得しますが、愛情を伝えることにはならないからです。現代においては愛情を計るのは時間ですから、金など使っても何の足しにもなりません。それどころか何でも金で解決したと、あとで突きつけられるのがオチです。

 もうひとつ。
 時間が愛情として通用するのは相手が受け入れやすい場合だけです。恋愛感情におけるストーキングと同じで、子どもが望まないものに時間を使っても意味ある愛とはなりません。本人にやる気のない中学校受験のために、どれほど時間やエネルギーを費やしても愛情を伝えたことにはならないといったことです。もちろん本人がやりたがる受験なら、意味ある時間の使い方です。

 クリスマス・イブの日に、愛について改めて考えてみました。