このブログも明日、年末の挨拶をして2021年分を終了。
いまも心に引っ掛かりのあることがいくつかあるが、
じっくり考えて文章にするだけの余裕がない。
そこで備忘録的にメモ、メモ、メモ――
という話。(写真:フォトAC)
【教員であっても職務上で犯した失敗は、賠償金をもって償う】
先週23日の朝日新聞に「教諭らに賠償請求へ プール給水止め忘れ」という記事がありました。
それによると、
高知市立初月小学校で7月にプールの給水を約1週間止め忘れた問題で、市は下水道料金などの損失額の50%を校長、教頭、担当教諭の3人に賠償請求することを決めた。総額約132万円を今月中に請求する。
(中略)
3人への請求の割合は市が独自に判断し、校長と教頭は4分の1(約33万円)ずつ、担当教諭は2分の1(約66万円)とした。
一方、3人の処分について、県教委は「重大な過失とはいえない」として処分はしない方針。
とのことです。
このニュースを見て衝撃を受けた教員は少なくないと思います。日常の業務でミスを犯して損害賠償を求められる可能性について、普通は考えたりしないからです。不注意からガラスを割って弁償をしたというような話は聞いたことがありますが、それとて1~2万円のこと、66万円となると2~3カ月の手取りということになりますから半端ではありません。
一方、市民の側から見れば「払って当然」という見方もあるでしょう。一教員の不注意を、血税をもって補うことに違和感を持つ人がいても不思議はありません。割ったガラスの弁償と何が違うのか、ということです。市の対応はそうした市民感情も考慮したうえでのことでしょう。
しかし「教師の不注意を税で補うのは納得できない」という市民感情を優先すると、例えば重大事故で市が数千万円の賠償を求められた場合、その一部を教員個人が負わなければならないのかという疑問も出てきます。
これについては改めて考えてみる必要がありそうです。
【“喪に服する”ということ】
松田聖子さんがNHK紅白歌合戦への出場を辞退したそうです。
出場する方向だという報道があったときも絶句しましたが、辞退の理由が「やっぱり歌えない」と聞いてまた絶句してしまいました。
そもそもこの問題は、歌えるとか歌えないとか、不幸を克服するとかしないとか、忙しさに取り紛れていた方がいいとかそうではいとか、あるいはファンを大切にするかしないかとかいった、そういうことではなく、喪の問題だと老人は思うからです。
「喪」は死別に対する自発的な悲しみの表現であり、一定期間、慶事(結婚式やクリスマスパーティー、授賞式、忘年会、新年会など)への出席を控え、正月飾りなども慎む習わしのことです。大切な人の死には一定期間(少なくとも四十九日の法要まで)、社会関係を断って悲嘆にくれる、そういう時間があってしかるべきだという考え方が基礎になっています。紅白歌合戦の出場はおろか、視聴ですら控えたくなる、それが当たり前だと老人は考えます。
これは歌手・松田聖子の批判ではありません。一昨日まで、ネット上には出場を後押しする発言が溢れていました。
社会の進歩のために、“喪に服する”という考え方・感じ方まで悪習として遠ざけられるとしたら、これはたいへんなことだと老人は思います。
【新型コロナはやはり憂鬱】
政府の新型コロナ対策分科会の尾身茂会長、まさか「尾身クロン」などとからかわれるのが嫌で姿を隠していたわけではないと思いますが、23日の記者会見に久しぶりに姿を現しました。
年末年始が心配だと――。
私も心配です。せっかくワクチン接種完了者が8割近くなり、ほぼ集団免疫ができた(らしい)というのに、オミクロン株のおかげでチャラというのではかないません。
先進国だけではなく、全世界で一緒に集団免疫を形成しなければいつまでも変異株に怯えなくてはならない(だからコロナ事態は終わらない)――そう考えるのも気の重いことです。
かつて防疫の優等生と言われた韓国もシンガポールもベトナムもダメ、オーストラリアも危ういとなると2022年もそれほど期待できないのかもしれません。中国製ワクチンを中心に接種を進めた国々の多くで感染爆発が抑えられなかったのに、本家本元の中国は驚くべき平穏さを守っているというのもかえって不気味です。