「あなたは楽になるが学校全体は楽にならない」~教職一年目ですでに辞めようかと迷っておられる先生方へ③

 教職は職人の世界だから、長く続ければ続けるほど楽になる。
 しかし楽になるのは個人であって学校全体ではない。
 それはこの国が子どもを丸抱えする伝統を持つからだ。
 しかし恐れるな、上に政策あれば下に対策がある。

という話。 

f:id:kite-cafe:20210929072352j:plain(写真:フォトAC)

 


【保護者の年齢を越えるととたんに楽になる】

 教職一年目ですでに辞めようかと迷っておられる先生方に「今が一番苦しい時、この先どんどん楽になりますよ」と助言するのは、基本的には正しいことですが、あまり上品ではなく、“楽になる”といっても限度があって厳しい世界であることには変わりありませんから、大声で言うことには遠慮があります。しかし言いかけたことですからもうもう少し加えておきましょう。

 教員の仕事が楽になるいくつかの契機――初年度の後半、特に1~2月(ただし受験生を抱えた学年は別)、2年目、10年ほど経って技能が身についたのち――これらについては既に書きました。ほかには、同じ学年を2年連続で担任したとき(授業や行事の中身が同じなので教材研究や事前検討が半分以下になる)、同じクラスを連続で担任したとき(児童生徒の特性、家庭の状況などに十分な知識がある)などがあります。しかし何といっても「保護者たちの年齢に肩を並べ、抜き去ったころ」の状況変化には、呆れるほどのものがあります。

 やはり年上の保護者に物申すのは大変なのです。私などは若い先生方に、
「そうは言ってもこちらは教育を学んできた教育のプロ、あちらは免許も持たずに親になった(とは言っても保護者免許などありませんが)子育て・教育のアマ。偉そうな顔をさせる必要はない」
と励ますのですが、40歳前後の社会的にバリバリの保護者を相手に、二十歳そこそこの教師が対決するのは容易ではありません。それがあるころから突然――具体的に言えば三十代後半あたりから、自然と優位に立てるようになるのです。年上の教員から教育について語られると、保護者もいったんは引いてくれるようになります。そこに生まれる余裕が様々なことを容易にします。

 大丈夫です、先生方。将来は暗くない!
(“将来は明るい”と言えないところがミソですが――)
 
 

【あなたは楽になるが学校全体は楽にならない】

 ただしこのさき、教職が8時~5時の勤務で終わるといったふうに飛躍的に楽になることはありません。それは明治以来この国が「子どもは国家が責任を持って育てる」といった一種の全体主義と、ポピュリズムを同時に持っているからです。

 明治5年(1872)に発布された学制に「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」とあるように、「すべて子どもを差し出せ、その代わり面倒はみる」というのが、近代日本の初等教育の出発点でした。
 また、前時代の寺子屋などで儒学が教えられたという経緯もあるのかもしれませんが、西欧諸国がキリスト教という精神的支柱を持つのに対して、日本には何もないことを怖れた明治政府が、極めて道徳性の強い、全人的な教育をめざしたこともひとつの特徴と言えます。
 つまり子どもの人格の隅々まで、すべてに関与しようと計ったわけです。その分、学校の負担は最初から大きいものでした。
 また他方で、貧しかった国民は労働力としての子どもを奪われた分、子育てや教育からは解放され、自由に働く時間を得ました。それが今日まで続いているのです。
 こうして子どもを国家に預け、日中の時間を自由に使うことは親たちの既得権となっていきました。彼らはそれを絶対に手放さない――。

 例えば、教員の働き方改革が話題となり、特に中学校の一部の先生からは部活動の外注、廃止ないしは縮小が強く求められていますが、私は絶対に無理だと考えています。
 外注といっても現在日本中にある部活動のすべてにボランティアをつけることなどできるはずもないし、雇い入れといっても1日3時間の労働に対して生活費に見合うほどの賃金を払うこともできません。
 残るは廃止か縮小ですが、そんなこと親が許すはずがないのです。考えてもみてください。いまの日本で部活がなくなることを真剣に望んでいるのは教員の、しかも一部だけです。
 子どもたちは何かスポーツや芸術活動がしたい、そこにしか活躍の場のない子もたくさんいます。親たちは子どもに戻ってきてほしくない。毎日4時に学校を出て、土日は家でウロウロしている――そう考えただけで気が狂いそうになります。
 もちろん子どもが嫌いなわけではありません。学校に行かない時間を子どもが家でじっとしているわけがなく、必ず外に行ってしまう、それが心配なのです。必然的に学習塾やお稽古事に出すことを考えるのですが、その費用はだれが負担するのでしょう?
――だから部活は絶対になくならないのです。

 同じように、子どもは学校が丸抱えしようという伝統はずっと続いています。
 昔の子どもだったら当たり前にしていた自然遊びや冒険遊びを、学校が用意してやろうというのが「生活科」です。いわば保育のやり直しです。子どもの就労についても一から十まで学校がしましょうというのが「キャリア教育」。最近ではプログラミングや基礎英語も学校でやっていこうということになっています。
平和教育」も「人権教育」も「性教育」も昔はありませんでした。「総合的な学習の時間」「環境教育」「薬物乱用防止教育」「食育」「コンピュータ・リテラシー教育」「生命(いのち)の安全教育」・・・将来的には「金融教育」や「ボランティア教育」も小中学校に降りてきます。
 こうして、いわゆる「追加教育」は不断に増やされて行くのです。だから学校は楽にならない。
 
 

【上に政策あれば下に対策あり】

 しかしそれも恐れるほどのことではありません。
 学校に持ち込まれるものはすでに収容能力を超えてしまっています。新しいものが入ってくれば他のものを棄てるしかなくなります。
 かつてあれほど苦しかった「学校独自のカリキュラムづくり」や「絶対評価」を今もまじめにやっている学校はありません(本気でやれば信じられないほど大変です)。「薬物乱用防止教育」や「リテラシー教育」、「性教育」の一部はNPOなどの専門家に任されるようになり「小学校英語」もALT(外国語指導助手)に任されるようになってきています。

 未来は明るくはありませんが、そう暗くもないのです。



(この稿、続く)