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「怖れが現実となり、願いがかなってしまう因果」~ハンス・アスペルガーは何をしたのか③

 才能を持ち、役に立ちそうな自閉症児をこよなく愛したアスペルガーは、
 一方で、“役に立たない命”には冷淡だった。
 そうした子どもたちは次々と殺されていく。
 第二次大戦後、彼が責任を問われることはなかったが、その死後、
 業績にふさわしい絶賛と凄まじい非難の時が訪れる。

という話。

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(写真:フォトAC)

 

 

ナチスの浸透、ウィーン大学病院の堕落】

 アスペルガーが治療教育診療所に配属された1年後、隣国ドイツでヒトラー率いるナチスが政権を握ります。するとアスペルガーが父とも慕うハンブルガーもナチスに入党。そのハンブルガーの指示で、アスペルガーはドイツで研修を受けることになります。そして新生ドイツの迫力に圧倒されるのです。

 当時のドイツは優秀な者だけを選別し、遺伝的に劣っていると考えられる人間を排除する優生学に基づいて、力強い民族共同体を生み出そうとしていました。「民族共同体を生み出す」というのは要するに国境を越える、あるいは新たな民族国家(単一民族で構成された国家)をつくるという意味です。
 それを見たアスペルガーは日記にこう記します。
「民族全体が熱狂的にひとつの方向に向かう。献身的で熱意に溢れ、厳しい鍛錬や規律を伴い、ものすごい力を秘めている」

 ウィーンに戻ったアスペルガーは、ハンブルガーの意向で28歳の若さで診療所の所長に抜擢されます。ハンブルガーは政治的に信頼できない人物を積極的に排除していましたから、この昇進はいかにアスペルガーがナチ党員ハンブルガーの信頼を得ていたのかを示すものです。

 1938年になるとドイツはオーストリアに侵攻し、オーストリアナチス国家の一部となります。ウィーン大学医学部も様変わりし、ナチスに懐疑的な医師は職を失い、残った者の半数は入党します。アスペルガーは入党せず、そのことがのちの彼を救うことになりますが、医療部門のナチとも呼ばれる「国家社会主義ドイツ医師連盟」を始めとする、ナチスとかかわりの深い団体には次々と加入しました。


 その年、アスペルガーはウィーンの医療従事者に向けた特別講演を行います。そこで彼はこんなふうに語るのです。
「新しい帝国の『全体は部分より大きい』という考えのもとでは、国家が個人より優先されなければなりません。そのためには遺伝病を予防し、優生学を浸透させることです」
「精神的に異常な児童への支援に専念することが、国家への最良の奉仕になります。民族の役に立つように、これを成功させなければならないのです」

 つまり自閉的な子どもたちを教育し、ナチスに貢献させようと高らかに宣言したわけです。

 1939年9月1日。ナチスポーランドに侵攻。第二次世界大戦がはじまります。ナチスはすでに1933年から障害のある者に強制的に不妊手術を行う「断種」を行っていましたが、ポーランド侵攻を期に民族浄化をさらに進め、「安楽死作戦」へと移行します。障害のある者に子孫を残させないだけでなく、今ある障害者そのものを取り除こうとしたのです。
 対象者は子どもにまで及び、ウィーンではシュピーゲルグルント児童養護施設がその舞台となりました。表向きは教育不可能と診断された子どもたちの専門病院でしたが、その実、子どもたちは医師や看護師によって薬物を注射され、ゆっくりと殺されて行ったのです。死因のほとんどは「肺炎」と記録されました。

 

 

第二次世界大戦後のアスペルガー

 1945年5月、ナチスは連合国軍に無条件降伏しました。
 その一年後、シュピーゲルグルント児童養護施設に関わる医師たちも「安楽死作戦」の責任を問われますが、大半はヒトラーの命にしたがっただけだということで刑を免れることができました。アスペルガーもその一人です。
 1946年、アスペルガーウィーン大学小児病院の院長に就任し、その後キャリアを積み重ねて終身医院長まで昇り詰め、1980年に74歳で急逝します。

 世間的には戦後300本ほどの論文を発表しましたが、ほとんどは子育てや教育に関するもので、医学的な論文というよりは発育環境や親の愛情といったテーマに関するものばかりでした。自らが発見した自閉的な子どもたちに関する研究は、二度と再開されなかったのです。

 無名だったアスペルガーの名が、突然脚光をあびるようになったのは皮肉にも亡くなった翌年、1981年のことです。
 イギリスの精神科医ローナ・ウイングは1970年代から自閉症と診断された子どもたちの調査を続けていましたが、やがて不思議な子どもたちの存在に気づきました。あの、言語や知能の遅れが見られない自閉症児、アスペルガーが40年近く前に魅了された子どもたちです。
 ウイングはドイツ語で書かれた古い論文にも気づき、最初の発見者に敬意を表して自分の見つけた子どもたちにアスペルガー症候群という診断名をつけ、論文に仕上げます(「アスペルガー症候群:その臨床報告」)。
 その論文をきっかけにアスペルガー自身も再評価され、彼の偉大な発見は16年の歳月を経て、日本の片隅の1997年の私の元にも訪れたのです。

 

 

ハンス・アスペルガーは何をしたのか】

 アスペルガーは死後、その偉大な事実の発見者として、さらにナチスから自閉症児を守った医学界のシンドラーとして瞬く間に有名になります。
 ところが2002年、シュピーゲルグルント児童養護施設の医師の、三度目の裁判を期に改めて「安楽死作戦」が調べられる中で、アスペルガーがかなりの数の子どもたちをシュピーゲルグルントに送っていた事実が明らかになってきます。その数は少なくとも44人。そのうち37人が“肺炎”のために亡くなっています。

 アスペルガー自身は当時を振り返って、「私は子どもたちを引き渡すことを拒みました」と証言しています。事実、安楽死が妥当だと判定したことは一度もありません。彼はただ書類に「教育不可能」と記してシュピーゲルグルントへ送ることを認めただけです。しかしそのシュピーゲルグルントで何が行われていたのか、彼が知らなかったと考えるのはあまりにも初心でしょう。シュピーゲルグルントの初代院長、安楽死作戦の実行責任者は、診療所で彼と5年間同僚だった医師、生粋のナチ党員だったからです。

 

 

【怖れが現実となり、願いがかなってしまう因果】

 のちにアスペルガー症候群と呼ばれる障害がすでに1944年に論文にされていたのに、なぜ90年代に至るまで注目されなかったのかという私の疑問は、こうして解けました。

 ひとつは1944年という第二次大戦末期にドイツ語で出版された論文であったこと、そしてもうひとつは戦後、アスペルガー自身が研究を続けず、自らの発見についても語らなかったからです。偉大な業績でしたが世に知られれば知られるほど、アスペルガーの指の間から漏れ落ちた子たちの行方にも注目が集まると分かっていたからでしょう。
 その怖れは彼の死後、現実のものとなります。

 

 1941年にシュピーゲルグルントでわずか4歳で殺されたアンネマリーには、3歳年上の姉がいました。妹の死の真相を知らないまま、姉はやがて大学に進学し、歴史学と美術の教師となって成功します。その姉が、60年も経ってのちにアンネマリーの送られた場所が安楽死施設だったことを知ります。
 姉はその後10年近い歳月をかけてシュピーゲルグルント研究に没頭し、そこで殺された789人の子どもの名前をすべて特定します(ヴォルトラウト・ホイプル著〔2006〕「シュピーゲルグルントで殺害された子どもの記録」)。

 実は、子どもの頃の姉はアスペルガーと面識があり、「時間があるときはいつも子どもたちに本の読み聞かせをしていた」とか「とても良い小児科医でした」とか、良い思い出ばかりを持っています。それは彼女もまた治療教育診療所でアスペルガーが愛してやまなかった“才能をもった患者”であり、いつか世の中の役に立つだろうと予言した一人だったからです。
 予言は的中し、選ばれた子は70年を経て、アスペルガーを含む医師たちの犯罪を明らかにしたのです。
 アスペルガーの恐れも願いも、ともに彼の死後、残酷な形で実現したわけです。

 

(この稿、終了)



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