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「誰が笛を吹いて子どもたちを連れ去ったのか」~739年前の今日、ハーメルンで起こったこと

 1284年の今日6月26日。
 ドイツのハーメルンで130人の子どもが忽然と消えた。
 以来740年近く、真実はわからないままだ。
 いったいあの日、あの町で実際に起こったのは何だったのか――。
という話。(写真:パブリックドメインQ)

【「ハーメルンの笛吹き男」の話】

 今日6月26日はドイツ・ニーダーザクセン州の大規模自立都市ハーメルンで130名の子どもが忽然といなくなった日です(1284年)。
 今から739年前、日本では鎌倉時代末期、その3年前の1281年には二度目の元寇弘安の役)が起こっており、およそ50年後の1333年には鎌倉幕府が滅亡している、そう考えれば歴史上の位置関係はだいたいわかってきます。
 
 「ハーメルンの笛吹男」は、有名な割には記憶に残りにくい話ですので振り返ると――。

『今から500年ほど前のことです*1。ドイツの田舎町ハーメルンの人々は、どんどん増えていくネズミに頭を抱えていました。食べものは食い散らかすし、家畜にも人にも襲いかかるネズミに怯え、人々は市役所に押しかけます。しかし市長も議員たちもネズミに怯えるばかりで何の良策も示しません。そこへやってきたのが色とりどりの奇抜な服を着たひとりの男でした。
 彼は町からネズミを追いはらうかわりに金貨1000枚を要求します。市長たちが一も二もなく快諾すると男は一本の笛を取り出し、美しい曲を奏でながら町の外へと歩き始めました。するとどこに潜んでいたのか、何万、何百万というネズミが現れて男のあとをついて行き、誘導されるままに川に飛び込んで一匹残らず死んでしまったのです。
 街の人たちが喜んでいると男が戻ってきた約束の金を要求します。しかし人々は急に金が惜しくなったらしく、ネズミを退治するだけで金貨1000枚など高すぎるなどと言い出して払おうとしなかったのです。
 男は腹を立て、再び笛を取り出して吹きながら山に向かって歩き始めます。すると今度は町じゅうの子どもたちが男の後を追って歩き始め、ついには山の洞窟に誘い込まれて内側から石の封印をされてしまったのです。男も子どもたちも、二度と戻ってくることはありませんでした』 
と、そんな話でした。何かおどろおどろしくて消化不良の感じがあり、だから世界的に有名な話になったのかもしれません。

【物語の原型】

 この話はグリム兄弟が1816年に著した「ドイツ伝説集」や、ロバート・ブラウニングという人の長編詩「ハーメルンの笛吹き男」(1849年)によって確定したもので、事件の起きた13世紀にはまったく違ったものでした。驚くべきことにネズミ退治の逸話がそっくり抜けていたのです。

 事実としてあったのは、

  1. 1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスには、色鮮やかな衣装を纏った笛吹き男と白い着物姿の子供たちが描かれていて、そこでは、
    1284年、聖ヨハネパウロの記念日
    6月の26日
    色とりどりの衣装で着飾った笛吹き男に
    130人のハーメルン生まれの子供らが誘い出され
    コッペンの近くの処刑の場所でいなくなった
    という説明書きが添えられていた(ステンドグラスは1660年にいちど破壊されたのち18世紀に復元された)。
    「コッペン」は丘を意味するが、それと思われる場所はハーメルンのあちこちに存在し特定に至らない。

  2.  ハーメルン市の年代記(市史)はこの事件を起点として書かれていて、その最初の行で次のように述べられている。
    「我らの子供達が連れ去られてから10年が過ぎた」

 たったこれだけですが、むしろたったこれしかなかったために、ハーメルンで130人もの子どもが行方不明なった話は津々浦々に広まり、多くの人々の耳目を集めたようです。
 人々は噂し合い推理し、やがて納得のいく説明を求めるようになります。
 
 1559年、もしくは1565年に至ってようやく、ハーメルンの子ども集団失踪事件にネズミ退治の要素が加わり始めます。ネズミによる食害は1200年代以来ずっとヨーロッパの人々を苦しめてきましたから、謎の男と失踪事件を結び付けるのに座りのいい物語となったわけです。

【誰が笛を吹いて子どもたちを連れ去ったのか】

 Wikipediaで調べると、700年以上に渡る人々の原因追及の過程を追って、次のような記述がなされています。
「この伝承の背後に潜む意味を説明するために、多数の説が提出されてきた。 ヴォルフガング・ヴァンはそれらを、舞踏病、移住、子供の十字軍、巡礼、作り話、溺死、山崩れ、誘拐、戦死、疫病など25種類に分類しており、解釈は様々である」
 そして中でも、
「最も広く支持されている説は、子供達は東ヨーロッパのドイツ人植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説である。(中略)。この主張は、Querhameln(ハーメルン製粉村)のような、ハーメルンと東方植民地周辺の地域それぞれに存在する、対応する地名によって裏付けられている。この説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている」
と紹介しています。

 Wikiはそれを最も合理的な解釈としています。しかし別の資料を読むと東方移民はハーメルン事件のずっと前から行われており、黒死病(ペスト)の流行も重なって1284年前後のハーメルンは極端な人手不足であり、とてもではないが植民どころではなかったといった話もあって単純ではありません。
 
 もしかしたら奇抜な衣装を着た笛吹きが現れた日に130人もの子どもが忽然と村から消えてしまったという、どの角度からも説明しても納得できないおどろおどろしさが、この物語を700年も支えてきたのかもしれません。

*1:1800年代に書かれたグリム童話では500年前という話になります。