1930年代、オーストリアの医師ハンス・アスペルガーは不思議な子どもたちの存在に気づいた。
高い言語能力を持ち、知的にも問題の少ない自閉症児たち。
やがて彼は観察記録を論文にまとめ世に問うた。
それがいつか忘れ去られた。
という話。
高い言語能力を持ち、知的にも問題の少ない自閉症児たち。
やがて彼は観察記録を論文にまとめ世に問うた。
それがいつか忘れ去られた。
という話。
(写真:フォトAC)
【ここがロードス島だ、ここでお前たちが跳べ!】
今は「自閉症スペクトラム障害」の中に含められて「アスペルガー症候群」という言葉は忘れ去られようとしていますが、かつてこの言葉が表す概念が、教師に与えた衝撃と希望はここ数十年で最大のものであったに違いありません。「ああこれであの子たちが理解できる」「この知識を使ってあの子たちを助けることができる」と、教師たちは本気で信じたのです。
「あの子たち」というのは長い教員生活で何度かで出会ってきた分かりにくい子どもたち――教師や親の制御がなかなか効かず、わがままで尊大、人の気持ちがわからない上に平気で人を傷つける、プライドが高いくせに何もしない、そういう子たちのことです。
保護者との面談でも助言のしようがないので「躾が不十分でしたね」とか「愛情不足ではないでしょうか」とか、言ったところで何の改善策も示せない無意味な発言をして、相手を怒らせたり悲しませたりすることもままありました。
しかしこれからはそうではない。私たちがしっかり勉強して知識と経験を蓄えれば、子どもと親の両方を同時に救うことも可能だ――そんなふうに感じたのです。
ところが実際に学習し始めると、基本的な内容は理解できても、具体的な「その子」の分析の仕方とか対処法とかいった部分はまるで空洞なのです。事例があまりにも少なく、何をどうしたらいいのかまったく分からない。
「概要は示した、あとは自分たちで何とかしろ」と言われているようなものです。
オーストリアの精神科医ハンス・アスペルガーが“その子たち”を発見して論文に仕上げたのは1944年のことです。それから半世紀もの間、研究者や医師たちは何をやっていたのでしょう? あんなに困っていた私たちの手元に、この素晴らしい知識が届かなかったのはなぜなのでしょう?――それが昨日の最後に示した疑問です。
「あの子たち」というのは長い教員生活で何度かで出会ってきた分かりにくい子どもたち――教師や親の制御がなかなか効かず、わがままで尊大、人の気持ちがわからない上に平気で人を傷つける、プライドが高いくせに何もしない、そういう子たちのことです。
保護者との面談でも助言のしようがないので「躾が不十分でしたね」とか「愛情不足ではないでしょうか」とか、言ったところで何の改善策も示せない無意味な発言をして、相手を怒らせたり悲しませたりすることもままありました。
しかしこれからはそうではない。私たちがしっかり勉強して知識と経験を蓄えれば、子どもと親の両方を同時に救うことも可能だ――そんなふうに感じたのです。
ところが実際に学習し始めると、基本的な内容は理解できても、具体的な「その子」の分析の仕方とか対処法とかいった部分はまるで空洞なのです。事例があまりにも少なく、何をどうしたらいいのかまったく分からない。
「概要は示した、あとは自分たちで何とかしろ」と言われているようなものです。
オーストリアの精神科医ハンス・アスペルガーが“その子たち”を発見して論文に仕上げたのは1944年のことです。それから半世紀もの間、研究者や医師たちは何をやっていたのでしょう? あんなに困っていた私たちの手元に、この素晴らしい知識が届かなかったのはなぜなのでしょう?――それが昨日の最後に示した疑問です。
【ハンス・アスペルガー】
先週水曜日(9月15日)のEテレ「フランケンシュタインの誘惑」には「ナチスとアスペルガーの子どもたち」という副題がついていました。
この番組は、科学的欲求のために墓場から死体を掘り出して怪物を創り上げたフランケンシュタイン博士の物語にちなみ、学問のために道を踏み外した科学者たちを中心に扱うもので、そこにハンス・アスペルガーが登場したわけです。
番組の冒頭はこうです。
ナチスの時代、ヒトラーは民族浄化の名の元、生まれつき重い障害のある子どもを安楽死という名目で殺していた。ナチス統治下にあったウィーンでは、ドイツが降伏するまでの5年間で、少なくとも、789人の子どもたちが殺された。そんな中、子どもたちを安楽死作戦から守ろうとしたとされる一人の医師がいた。ハンス・アスペルガー、ウィーン大学で障害のある子どもたちに特別な才能を見出した小児科医、社会適応は難しいが、優れた能力を持つ発達障害の子どもたち、その才能は生涯必ず役に立つと訴えた。
(中略)
戦後、この発達障害は発見者の名を取りアスペルガー症候群と名づけられる。アスペルガーは良心の医師、医学界のオスカー・シンドラーとして一躍有名になる。だが――、
近年、衝撃の研究報告が発表された。
実はアスペルガーには全く別な顔があったというのだ。
ハンス・アスペルガーは1906年、オーストリアのウィーンで生まれました。学歴のない父親に厳しく育てられたハンスは成績も優秀で、19歳でウィーン大学医学部に進学します。しかし折り悪しく世界恐慌の真っ最中で、卒業後は就職に苦労しました。その時声をかけてくれたのが、ウィーン大学小児科医院の医院長、フランツ・ハンブルガーで、アスペルガーはこの人を父親のように慕い、生涯その支配下にはいります。フランツは後にナチスに入党する人です。
この番組は、科学的欲求のために墓場から死体を掘り出して怪物を創り上げたフランケンシュタイン博士の物語にちなみ、学問のために道を踏み外した科学者たちを中心に扱うもので、そこにハンス・アスペルガーが登場したわけです。
番組の冒頭はこうです。
ナチスの時代、ヒトラーは民族浄化の名の元、生まれつき重い障害のある子どもを安楽死という名目で殺していた。ナチス統治下にあったウィーンでは、ドイツが降伏するまでの5年間で、少なくとも、789人の子どもたちが殺された。そんな中、子どもたちを安楽死作戦から守ろうとしたとされる一人の医師がいた。ハンス・アスペルガー、ウィーン大学で障害のある子どもたちに特別な才能を見出した小児科医、社会適応は難しいが、優れた能力を持つ発達障害の子どもたち、その才能は生涯必ず役に立つと訴えた。
(中略)
戦後、この発達障害は発見者の名を取りアスペルガー症候群と名づけられる。アスペルガーは良心の医師、医学界のオスカー・シンドラーとして一躍有名になる。だが――、
近年、衝撃の研究報告が発表された。
実はアスペルガーには全く別な顔があったというのだ。
ハンス・アスペルガーは1906年、オーストリアのウィーンで生まれました。学歴のない父親に厳しく育てられたハンスは成績も優秀で、19歳でウィーン大学医学部に進学します。しかし折り悪しく世界恐慌の真っ最中で、卒業後は就職に苦労しました。その時声をかけてくれたのが、ウィーン大学小児科医院の医院長、フランツ・ハンブルガーで、アスペルガーはこの人を父親のように慕い、生涯その支配下にはいります。フランツは後にナチスに入党する人です。
【アスペルガーが見つけ出した子どもたち】
1932年、26歳のときアスペルガーは小児科医院内の「治療教育診療所」に配属されました。そしてそこで驚くべき光景を目にします。
当時、心に問題を抱えた子どもは病院で日夜ベッドに縛り付けられ、テストや検査を繰り返されるのが一般的でしたが、治療教育診療所では子どもたちを自由に遊ばせ生活者として扱っていたのです。
医師たちは子どもたちの遊び方、食べ方、話し方などをつぶさに観察し、週一回の検討会では一人ひとりについて討論を重ね、あらたな治療と教育の方針を決めていくのです。
そうした世界中でウィーンにしかなかった画期的な治療法に携わりながら、やがてアスペルガーは不思議な子たちの存在に気づいて行きます。
誰にも教えられていないのに独特な計算方法にたどり着く子、言葉では表現できずとも明らかに理解の進んでいる子――ある少年は毒薬に取りつかれ、極めて特殊な知識を蓄え、毒薬の台コレクションを持ち、中には無邪気に自分で調合したものもあったと言います。また別のある子はのちに大学に進み、ニュートンの論文の過ちを指摘したりもします。
アスペルガーは観察の結果を次のように記しています。
非常に狭くて限られた特殊領域は、異常な肥大を見せている、それはものごとの本質を見抜く非凡な眼力を示している。
アスペルガーはこの診療所で200人に近い子どもの観察を続け、1944年に観察記録をまとめた論文を発表します。これがのちに自閉症の概念を大きく広げることになるのです。
言語能力に優れた自閉症児の存在――言語や知的な能力の遅れは自閉症の判断基準のひとつでしたから、これは画期的な発見でした。
アスペルガーは自分の愛する子どもたちを記録した論文の最後に、こう記します。
「医師には、全身全霊をかけてこれらの子どもたちに代わって声を上げる権利と義務がある。ひたむきに愛情をささげる教育者だけが、困難を抱える人間に成功をもたらすことができる」
しかし番組を見ている私たちは、この段階ですでに、重要なことに気づいています。ハンス・アスペルガーが礼賛してやまないその子たちは、誰かの役に立ちそうな特別な才能をもった一部の自閉症児であって、その目から漏れた大量の子どもたちが別に存在するのです。
(この稿、続く)
当時、心に問題を抱えた子どもは病院で日夜ベッドに縛り付けられ、テストや検査を繰り返されるのが一般的でしたが、治療教育診療所では子どもたちを自由に遊ばせ生活者として扱っていたのです。
医師たちは子どもたちの遊び方、食べ方、話し方などをつぶさに観察し、週一回の検討会では一人ひとりについて討論を重ね、あらたな治療と教育の方針を決めていくのです。
そうした世界中でウィーンにしかなかった画期的な治療法に携わりながら、やがてアスペルガーは不思議な子たちの存在に気づいて行きます。
誰にも教えられていないのに独特な計算方法にたどり着く子、言葉では表現できずとも明らかに理解の進んでいる子――ある少年は毒薬に取りつかれ、極めて特殊な知識を蓄え、毒薬の台コレクションを持ち、中には無邪気に自分で調合したものもあったと言います。また別のある子はのちに大学に進み、ニュートンの論文の過ちを指摘したりもします。
アスペルガーは観察の結果を次のように記しています。
非常に狭くて限られた特殊領域は、異常な肥大を見せている、それはものごとの本質を見抜く非凡な眼力を示している。
アスペルガーはこの診療所で200人に近い子どもの観察を続け、1944年に観察記録をまとめた論文を発表します。これがのちに自閉症の概念を大きく広げることになるのです。
言語能力に優れた自閉症児の存在――言語や知的な能力の遅れは自閉症の判断基準のひとつでしたから、これは画期的な発見でした。
アスペルガーは自分の愛する子どもたちを記録した論文の最後に、こう記します。
「医師には、全身全霊をかけてこれらの子どもたちに代わって声を上げる権利と義務がある。ひたむきに愛情をささげる教育者だけが、困難を抱える人間に成功をもたらすことができる」
しかし番組を見ている私たちは、この段階ですでに、重要なことに気づいています。ハンス・アスペルガーが礼賛してやまないその子たちは、誰かの役に立ちそうな特別な才能をもった一部の自閉症児であって、その目から漏れた大量の子どもたちが別に存在するのです。
(この稿、続く)