カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「不思議な少年との出会い」~ハンス・アスペルガーは何をしたのか①

 二十数年前、私は不思議な児童と会った。
 人の気持ちを逆なでる、妙なしぐさをする、謎のこだわりと集中。
 考えてみると、そんな人間は昔からいたはずだ。
 それらなのになぜ、彼らは長いこと忘れられていたのだろう。

という話。

f:id:kite-cafe:20210921075514j:plain(写真:フォトAC)

 

【私の出会った不思議な子】

 1998年、私は当時勤めていた小学校の5年生のクラスで、とても奇妙な子に出会います。地方都市のはずれにある、一クラス10人少々のとても小さな学校のことです。
 その子には人の気持ちを逆なでする悪い癖があり、例えば算数の時間に答えを間違えた子がいたりすると、自分もできていないのに大声で「バカじゃねえの?」と叫んでみたり、授業中に臭いオナラをしてみんなが嫌がると「イッヒッヒ」と笑ったりするのです。ちなみに生身の人間が「イッヒッヒ」と笑うの聞いたのは、その子が二人目でした。

 寄り道しますが初めて聞いたのは、そのわずか2年前まで勤務していた学校の校長先生の口からで、マンガの世界でしか知らなかったその独特の笑いを、実際にする人がいると知ってびっくりしました。マンガ家というのは大したものだ、人間観察が徹底的にできていると感心したものです。
 ちなみにその校長先生も人の気持ちの読めない人で、これまたマンガ繋がりですが、幼児以外で地団駄――片足で何度も地面を踏み鳴らす――を実際にする人間を見たのも、その人とその子だけです。今日まで、あとに先にも二人だけでした。
 話をクラスの子に戻します。

 興味に、不思議なこだわりと集中のある子でした。
 5年生の時にはモーツアルトに夢中で、ケッフェル番号も片っ端覚えていて私にああだこうだ言ってきます。校内に相手をしてくれる人が誰もいないからです。
 6年生になるとアメリカの特殊部隊グリーンベレーに興味を切り替え、実際に緑色のベレー帽を買ってもらってそれで登下校していたのですが、あいにくなことに運動がからきしダメで、しかもそのダメさ加減もかなり特殊でした。空間把握ができないのです。
 
 

【空間把握の問題】

 ソフトボールで空高く上がったボールの落下点がわからない。グローブをしっかり構えて捕ろうとするのですが、その位置が落下点の5mも前だったりうしろだったりします。跳び箱では踏切板の2mも手前でジャンプしたり、逆に走り抜けて跳び箱自体に激突したりします。
 びっくりしたのはサッカーで、軽く流したボールを直角の位置から走って行って蹴る練習では、ボールのコースを先に横切ってしまうのです。私のような老人だと“あの位置で蹴ろう”と距離を測っても足がついて行かず、ボールまで届かないということはあります。しかし早く着きすぎてボールのコースを先に横切ってしまうことはありません。早く着いたら止まって待っていればいいだけのことです。
 それを彼は走り続けて、自分のうしろを空しく転がっていくボールを見送るだけなのです。同級生も慣れきっていて、笑い者にすらしません。

 空間認識が苦手なので絵が描けません。
 まったく描こうとしないので、「このあたりに顔」「この辺りに体を置いて腕はこちら」と説明しながら鉛筆で薄く枠を描いてあげるのですが、それでも描こうとしない。慣れたもので同級生が次々と近づいて「ここはこんなふうにするんだ」とか「こうしたらどうかな」とか言いながら少しずつ手を入れていくので、本人は何もしないのにいつの間にか絵が完成してしまうという不思議さ、それにもかかわらず、彼はまったく平然としています。

 こう説明すると、あまり経験のない先生方でもすぐに「ハハン」と理解してくれると思います。典型的な発達障害自閉症スペクトラムの子です。
 
 

【そんな子は昔からいた】

 ところが、今では誰でも知っている発達障害の特徴が、1998年当時はまったく理解できなかったのです。発達障害という概念がありませんでしたから。
 世の中には、なにかとても風変りな人たちがいるということは経験的に分かっていました。それが大人なら、悪く言えば「変人」、少し好意的に言って「とっちゃん坊や」、さらに好意的な表現である「万年青年」、そういった中にも、同様の人は大勢いたのかもしれません。

 実際にそばにいたりするとかなり面倒くさい人たちで、特に親や教師にとっては頭痛の種だったり激高の火種だったりしますが、その実、私たちはけっこうこういう人たちが好きで、落語の与太郎から始まって夏目漱石の「坊ちゃん」、植木等の演じる「植木等」、フーテンの寅さん、釣りバカ日誌の浜ちゃんもバカボンのパパも、みんな似たような人たちです。

 つまり、私たちは彼らを知っていた、それもかなり古くから知っていて、怒ったり困ったり、頭を悩ませたり愛したりしていたのです。しかしそれを一つの類型として取り上げることは、少なくとも社会全体としてはありませんでした。
 
 

アスペルガー症候群

 冒頭に紹介した発達障害子どもに会う前の年(1997)、司馬理恵子の「のび太ジャイアン症候群」が出版されます。これは副題に「いじめっ子、いじめられっ子は同じ心の病が原因だった」とある通り、短気で怒りっぽく粗暴なジャイアンと、引っ込み思案で自信がなく、自己主張のできないのび太が、ともにADHD(注意欠陥多動性症候群)という概念でひとくくりにできることを紹介した、日本で初めての一般向け啓蒙書です。
 私はたまたまそれを初版で読んでいたのですが、本に描かれた子どもと目の前の児童を、同じ枠で考えるまでにはずいぶん時間がかかってしまいました。というのは「のび太ジャイアン症候群」が発達障害全般を扱いながら特にADHDに寄せて執筆されていたのに対し、私の児童はADHDの要素も持ちながら、むしろ(今でいう)自閉症スペクトラムの要素の方が強かったからです。

 彼と出会って1年以上も経ってようやく、私はその子の中のADHDに気づきます。しかししっくりこない。そこで当時たまたま大学の研究室に出入りしていたので、一緒に研究をしていた特別支援畑の教員に相談したのです。すると彼女はこんなふうに教えてくれました。
「直接本人に会ってみないと何とも言えないけど、ADHDとは別にアスペルガーってのもあるよ」
 これが私のアスペルガー症候群との出会いで、しばらく勉強した私は、数年の間、教員の中ではアスペルガー症候群にもっとも詳しい一人だったのです。
 
 

【謎】

 以上はすべてが前置きみたいなもので、私が言いたいのは次の1点です。
 
 私はほんの数年しか専門家でいられなかった――つまりアスペルが—症候群に関する知識は燎原の火のごとく、あっという間に全国津々浦々の学校に広がっていった
 それほど重要で有益な知見が、実は1944年のハンス・アスペルガーの論文にすべて書いてあったのに、なぜ、半世紀以上もった1998年まで、日本の教員の耳に届かなかったのか。

(この稿、続く)