カイト・カフェ

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「みな様、そうしておられます」~日本人の特性

 たとえばドイツ人は厳格で規則にやかましいとか、イタリア人は女に手が早いとかいったステレオタイプ化した民族性を前提としたジョークをエスニック・ジョークというそうです。その中で私の好きな一話。

タイタニック遭難のような状況で、各国男性に救命ボートを諦め、船に残ってもらうための一言。
 イギリス人に「紳士はそうするものです」
 ドイツ人に「規則でそうなっています」
 アメリカ人に「ヒーローになれるぞ!」
 イタリア人に「女にモテるぞ!」
 そして日本人には、
 「みな様、そうしておられます」
 日本人の、よく言えば協調性、悪く言えば主体性のなさを揶揄したものです。しかしこれはある程度しかたのないことです。

 日本人の中には徹頭徹尾、農耕民族としての文化が根付いています。それは「他に合わせる」ということです。農耕社会では個性的というのはあまり重要な価値ではありません。みなが代掻きに出かけたら“私”も出かけなくてはなりません。隣りが田植えを始めたら“私”もしなくてはなりません。ここで意地を張るなり「個性を発揮する」なりして「俺りゃあ、7月になってから田植え、すっぺ」とかいってもダメなのです。常に隣りを意識し、常に隣りに気を配りながら生活していきます。そうした日本人のあり方は、“隣り百姓”といいます。
 また農耕民族は灌漑や新田開拓など、大工事のために常に集団性を求められますから、その点でも集団性を高めます。狭い地域に住み、お互いに譲歩したり妥協したり、そして協力しながら暮らしてきたのです。

 その点で狩猟民族は違います。マンモスなど大型動物を捉えていた時代は違うかもしれませんが、基本的に小集団で、個が問われます。みんなが動き出すのを待っていたのではロクな獲物にありつけません。常にひとりで、他を“出し抜く”覚悟で仕事に向かわないと損なのです。
 そうした彼我の違いを頭に入れておかないと子どもの扱いも誤ります。

 子どもが発言をしない。特に学年が上がるに従って挙手しなくなる、というのは私たちにとって長年のテーマです。テレビで「マイケル・サンデルの白熱教室」などを見ていると、やっぱり日本人はダメだ、あんなふうに生徒が次々と挙手をするようになるためにはどうしたらいいのだろうと考えたくもなりますが、現実問題として、日本人があんなふうになることはあるのだろうか、日本人があんなふうになったら本当に幸せなのだろうか、そんなことを考えることがあります。なぜなら中学生の授業の中で、しばしば“隣り百姓”の息遣いが聞こえてくるときがあるからです。子どもたちが、自分の好奇心や意欲と周囲の状況を秤にかけて、発言しようかしまいか慎重にはかっている様子が見て取れるからです。

 同じ日本人でも小学校の1〜2年生などは違います。彼らは周囲の状況よりもはるかに自分の興味の方が優先します。ですから「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ」とか叫び続けて自己を主張します。しかし同じことが中学校3年生の教室で起ったらそれは考えものでしょう。
 たしかに、私たちは児童生徒に挙手してもらいたい、発言してもらいたい。そうしなければ授業が進みません。しかしみんなが元気に発言するためには、サンデル先生とは全く異なったアプローチが必要になるはずです。