「娘と私と母の世代の物語」~モノによってもたらされる幸せ②

 30年を1単位と考える「世代」。
 それを基準に私たちの育ってきた世代、娘たちの育ってきた世代、
 そして母たちの育った世代を見比べると,
 意外なものが見えてくる。

という話。

f:id:kite-cafe:20201116072914j:plain(写真:フォトAC)

【世代】

 「世代」という言葉は「ゆとり世代」とか「さとり世代」とかいったふうに“生まれた時期と経験を共有する集団”という意味で使われることが多いと思いますが、祖父母・親・子・孫と数える数え方のひとつで、一世代およそ30年あまりのことだという捉え方もあります。
 60歳定年制というのも大雑把に「人は30歳までに次の世代を生み終えて、60歳までには全員を独り立ちさせている」という推定の上に成り立った制度だとも言えます。現在のように平均寿命が延びることも、若者の晩婚化も予想できなかった時代の考え方です。
 
 ただし一世代30年という考え方はそれぞれの世代が経験してきたものを対比する上では今も便利です。例えば私が生れて30歳になるまでに経験したことと、娘が30歳になるまでに経験したことを比較してみると、有意義でさまざまに面白いことが見えてきます。
 

【堅実で賢い娘たちの世代】

 娘のシーナは平成2年生まれで今年30歳になりましたから、人生の最初の30年間はほぼ平成に重なっているわけです。平成を語ることとシーナの半生を語ることとはほぼ一緒になるとも言えます。
 そのシーナの生まれた年、平成2年はバブル経済の最終年で、預金金利はとんでもなく高いものでした。娘の誕生記念にシーナの名で預け入れた郵便局の定額預金は、10年後、信じられないほどの利息がついて返ってきました。しかし同じ10年の間、世の中は平成不況が延々と続き、「失われた10年」が「失われた20年」になっても終わらなかったのです。

 私の家は親も子も公務員で不況の実感は少なかったのですが、シーナが大学生になったときに歓迎コンパが居酒屋で開かれて、以後、飲み会はほとんどが居酒屋だと聞いた時には時代の大きな変化を感じました。

 私が大学生だった時代、「居酒屋」は“あまり豊かでないサラリーマンのおっちゃん”の行くところでした。学生である私たちだって豊かではありませんでしたが、1973年のオイルショックがあれほど長く続くとは夢にも思っていませんでしたから、高度成長期のやり方そのままに、かなり無理をして行くのはスナックかカクテルバー、食事も少しは名の通ったレストランと相場が決まっていたのです。女の子をデートに誘って居酒屋に入るなんて夢にも考えられないことで、そもそも「居酒屋」に客として若い女性がいることすら考えられなかったのです。
 それがシーナの時代は「居酒屋」のワリカンが当たり前だとか――私の感覚からすればかなり惨めな姿ですが、そうした風潮が堅実で賢いシーナたちの世代を育てたと言えます。

【浮かれた人々、必死な人々、私たちの世代】

 話は横道にそれますが2005年に映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を観に行ったとき、中のセリフに、それこそ座席から滑り落ちそうになるほどびっくりしたものがありました。
 それは主人公の自動車修理工場に初めてテレビの入った日の場面で、テレビを購入するという自らの偉業に感激した主人公が、集まった近所の人たちを前に一席ブツときのセリフです。
「戦争が終わって13年、ついにこの日が・・・」

 舞台は東京タワーが建ち始めた昭和33年ですから「戦争が終わって13年」は間違いないのですが、映画が上映された2005年(平成17年)から逆算して13年前は平成4年、シーナが2歳のときで、私にとっては「ついこの間」のことなのです。東京タワーが建ったのは「ついこの間」まで戦争があったころののことだという事実が、私を驚かせ座席から滑り落ちそうになったのです。

 さらに言えば私が生れたのが昭和28年。もしかしたら日本のあちこちに戦争の傷跡がいくらでも残っていたのかもしれません。その中で私は生まれ育った――つまり私たちはまさに「戦争直後」の子だったのです。
 しかし私自身にその自覚はまったくありません。

 戦争の記憶はまるでなく、私はひたすら高度成長期の子、夢の経済発展の子として大人になってきたのです。延々と続く不況の中で甘い夢も描かずに堅実に大人になってきた娘や息子の世代とは根本的に違います。
 受験競争の厳しい時代でそれなりに必死でしたが、それを勝ち抜いて「良い高校から良い大学へ、そして良い企業に」入れば、豊かな暮らしが保証されていると信じられた、その意味で浮かれた時代の申し子です。
 娘たちとは何と違ったことか。

【何もなく始まった母たちの世代】

 今年93歳になった母は昭和2年の生まれです。
 大正天皇は大正15年のクリスマスに崩御されましたから昭和元年はわずか7日間しかなく、その意味で2年生まれは元年生まれと同じようなものです。ちなみに昭和は最終年(64年)も1週間しかありませんでした。

 母の生まれた昭和2年は金融恐慌の起こった年で、それまでの世の中の雰囲気を一気に変え、昭和前期の暗く厳しい風が一気に流れ込んできました。直前の大正時代は、「鬼滅の刃」のおかげでこれからブームになるかもしれませんが、大正デモクラシーだの大正ロマンだの、質実剛健の明治と暗い昭和に挟まれたにしては、明るく、妙に浮かれた時代だったのです。

 母が4歳の年に満州事変があり10歳の年に日中戦争が始まっています。14歳の年に真珠湾攻撃があって18歳になったばかりの翌月に終戦となりました。物心ついた時から青春時代を終えるまで、ひと時も休まず戦争が続いていたようなものです。
 その7年後に結婚して翌年に私が生れるわけですが、結婚当初はとにかく何もなかった――布団二組と台所用品、父の持ってきた物と言えば小さな文箪笥(ふみだんす)ひとつで、六畳と四畳半の二間ががらんと広かったと言いますから相当なものです。
 その文箪笥は、私が大人になっても長く部屋の片隅にありました。
 
 貧しく何もないところから始まった母たちの生活は、それでは暗く苦しいものだったのかというと私にはそうとも思えないのです。それどころか私たちや私の娘たちの世代に比べたら、はるかに豊かで面白いものではなかったのかと想像することが多いのです。

(この稿、続く)