カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「母さんは川へ洗濯に、子どもたちは風呂に水を運んで」~モノによってもたらされる幸せ③

 二世代(60年)遡るとこの国の中に別の世界が現れる。
 若い人たちは親である私たちの世代までしか知らないだろうが、
 もう一つ上の人々、祖母たちが働き盛りだったころは、
 半ば江戸・明治期と変わりないところから、生活を始めていたのだ。

という話。

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(写真:ソザイング)

 

【私の家から家族の家へ】

 昨日、「昭和27年に私の両親が結婚したとき、父が持ってきたのは小さな文箪笥ひとつだった」という話をしましたが、平成元年に私が結婚したとき、妻が持ってきたのは布団一組と巨大なワープロセット(業務用)、そして自分自身の仕事道具だけでした。しかし私の両親の場合とは異なります。結婚が遅かったこともあって、当時借りていた私の教員住宅には基本的なものはすべてそろっていたのです。あえて持ってくるほどの何ものもありませんでした。

 私からすると室内の雰囲気はまったく変りないまま新婚生活が始まったわけですが、自身の仕事に夢中になって手元ばかり見ていると、視界の隅で妙な動きをする見慣れないものがある、そういうときはたいてい妻でした。それだけが異質なものだったのです。
 そんな「私の家」は、「二人の家」になるまでには結構時間がかかりました。正確に言えば「二人の家」になる前に子どもが生まれましたから「三人の家」になってしまったわけですから、「私の家」から一気に「家族の家」になってしまったわけです。
(誤解のないよう言っておきますが、最初の子は平成2年生まれですから計算は合います)

 母たちは違いました。
 何しろ6畳と4畳半の二間に文箪笥しかないところからの出発ですから、ひとつひとつ、すべてを買いそろえて行かなくてはならなかったのです。

 

 【母さんは川へ洗濯に】

 話をいったん現代に戻します。
 つい最近のことですが、家族ぐるみで付き合っているご家族の三番目の娘さんのところに赤ちゃんが生まれ、出産祝いを届けるとともに抱っこさせてもらいに行きました。私は乳飲み子を抱くのが大好きなのです。

 その席でこのあいだ娘に洗濯機を買ってやった話から、昔、私の母の世代では川に洗濯に行くこともあったとそんな話に花を咲かせたのです。

 ウソではありません。
 私が生まれ育った家は一級河川の堤防下の市営住宅で、洗濯物とたらいをもって5分も歩けば川に行けたのです。一級河川と言っても河口から何百㎞も離れた山間の盆地ですから川幅も狭く、石もゴロゴロしています。そこにたらいを並べて、近所のおかみさんとムダ話をしながら洗濯をするのです。

 洗い終わった水はそのまま川に流しています。すすぎは2~3歩川の中に入ってジャブジャブゆすぐだけです。
 今ほど環境保護にうるさくはありませんでしたし、合成洗剤ではありませんから「三尺下ればただの水」になってしまうわけです。
 もちろん薄氷の張る冬場はできませんので、台所で大量の湯を沸かし、庭で水道の水と合わせてたらいで洗います。「庭で水道の・・・」というのは、隣家と共有の蛇口が庭にひとつあるだけだったからです。


 

【銭湯帰りの戦闘】

 赤ん坊を抱かせてもらいながら、基本的には母親になったばかり娘さんに向けて話していたのですが、驚くその子に向けて、今度は私と同年配の母親(赤ん坊からすれば祖母)が話し始めます。
「そうよ、私の家なんかお風呂が川の水だったのよ」
「五右衛門風呂?」
「そう。川と言ってもすぐ横に小川が流れていて、そこから水を汲んで炊いたの」

 その話を聞きながら、五右衛門風呂でもあるだけで羨ましいと思いました。私の家はずっと銭湯だったからです。しかもけっこうな距離があって、私は父の自転車の後ろに、弟は母の自転車の後ろに乗せられていきました。しかも冬場などはとんでもなく厚着をしていかないと帰りに冷えてしまいますから、だるまさん状態で行って帰ってくるのです。それだけでもひと仕事です。

 けれど厳寒の銭湯行にも楽しみはありました。それは家に帰って弟とするチャンバラごっこです。 わずか15分~20分程度自転車に乗っていただけなのに、その間に濡れたタオルが凍りついて硬い棒のようになってしまいます。それを刀に見立てて切り合いをするのです。しばらく戦っているとやがて室内の温かさで刀が緩んできます。そこで先に刀が折れた方が負けなのです。たいていは握っている手の部分でクネッとなりますから、いかに強く握らないかが勝負の分かれ目でした。

 何年かすると自宅にも風呂ができましたが、それは私の母の父親――つまり祖父に当たる人がどこからか廃材を集めて建てた掘立小屋の風呂でしたから、冬は寒くて使えず、銭湯帰りのタオルのチャンバラはけっこう大きくなるまで続けられました。

 

 【家庭生活における技術革新、生活革命】

 結局、冬でも入れる風呂は父が家を建てる中3の春まで待たざるを得ませんでした。それでも春から秋にかけて、家で好きな時に入浴できるようになったことは画期的でした。
 しかし――画期的でしたが、今から思うと家庭生活における技術革新、生活革命といった意味での家庭風呂のランキングは、実はかなり低いものだったのです。
 それよりもずっと大切なこと、革命的なことはたくさんありました。
 その製品や機器、道具が入ることによて家族の日常がガラッと変わり、あらゆるものが楽に簡単にできるようになる――そんな体験はまず台所から始まったのです。

(この稿、続く)