「才能のない者、競争に飽きた者の楽しい生き方」~才能と努力について④ 

 才能――激しい負けん気や厳しい集中力・持続力、他を上回る頭脳や体力など、
 みんなが持っているわけでないから、これを才能という。
 しかしあれば幸福を約束されるわけでも、なくて不幸なわけでもない。
 そこには別の生き方もたくさんある。

という話。  

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(写真:フォトAC)
 
 

【「頭がいいのに努力しない子」ではなかった】

 私は高校生のころ、さっぱり成績の上がらない自分のことを「頭はいいのだけど努力をしないので伸びないだけだ」と思っていました。その裏には「何か目標が見つかってその気になりさえすれば、(頭はいいのだから)すぐにも成績は伸びていくはずだ」という思いがありました。
 しかしいつまでたっても「その気」になることはなく、二十代の後半になって気づいたことは「努力できるかどうかだって才能じゃないか」ということです。凄まじい集中力・持続力、余計なことに気を取られずに専心できることなど、すべて自分には欠けていたのです。

 さらにしばらくして、教員となってたくさんの「頭のいい」子どもたちを見ているうちに、また考えが少し変わります。「努力できるかどうかだって才能じゃないか」には変わりないものの、あの「頭のいい子」たちが本当に精励刻苦、辛い気持ちに耐えて努力しているのかというと、そうでもないことに気づいたからです。実に楽しそうな一面があります。そして理解したのです。
“私を置き去りにしていった友人たちは、私の半分も努力していなかったのかもしれない。私は、本当は頭なんかよかったわけでなく、それなのにかろうじてついていけたのはよく努力したからかもしれない”
ということです。

 登山に例えれば、100m登った友人が50mしか登っていない私の2倍もがんばったわけではないということです。何しろ私の登山ときたら3歩登って2歩滑り落ちるような情けないもので、50m登るためには150m分も足を動かさなければなりません。せっかく手に入れたものをすぐに失ってしまう。
 それに比べたら友だちは実にすいすいと、気持ちよく登っていくのです。あれだったら登山も楽しく、200mも300mも苦もなく進んでしまうに違いありません。私だって同じ能力があったらもっと楽しく進めたはずです。しかしやはり私は苦しく、だから諦めざるを得なかった――。

 彼らが本当に頑張らなくてはならないのは標高8000mを越えてからです。私はそこにいません。
 
 

【才能のない者の楽しい生き方】

 私たちは幼少期、何かができるようになったというだけで、誉められ、喜ばれたものです。
「寝返りができるようになった」「ハイハイができるようになった」「歩けるようになった」・・・。
 それがいつしか競争に巻き込まれてしまい、他人より優れていることが必要だと思い込むようになります。学力競争はその基本的なものです。
 しかしこの競争を最後まで戦いきれる人は稀で、地方の高校で天才のように言われた人も東大に入ればほとんどが“単なる東大生”、首席で卒業できるのはそれぞれの学科で一人しかいません。しかも勝ち残ってしまうとまた新たな競争に参加せざるを得ない。

 競争を軸として生きる限り、どんな世界でも結局、負けるまでは勝ち続けなくてはなりません。それが宿命です。人間はもともと競争が大好きですから参加できる間はそれもいいでしょう。何も早々に降りる必要はありません。
 ただ、負けたあとの生き方、あるいは競争に飽きたあとの生き方についても、やはり準備しておくことが必要かと思います。
 その意味で、一昨日、ノーベル賞の授賞発表があった真鍋淑郎先生の、次の言葉は励みになります。
「研究を始めたころは、こんな大きな結果を生むとは想像していなかった。好奇心が原動力になった。後に大きな影響を与える大発見は、研究を始めた時にはその貢献の重要さに誰も気付かないものだと思う」

 激しい負けん気も闘争心もなく、厳しい集中力や持続力、他を上回る頭脳や体力はなくても、好奇心を原動力とするならやっていけるかもしれません。もちろんノーベル賞を取るためには真鍋先生のような才能も必要でしょうが。