生徒に騙された話 2

 

 昨日は、朝帰りした女生徒の「一晩中、公園で話をしていた」という説明を真に受けてまんまとだまされた話をしました。二人は同級生の男の子の部屋に入り込んで一晩中話し込んでいたのです(それ以上のことがあったかどうかは分からない)。

 

 なぜその嘘がばれたのかというと、事件から3か月も後になって本人たちが話しに来たからです。

「私たち、先生に話さなくてはいけないことがある」とか言って。

 

 話を聞いて、私は3か月前のことを思い出し「ああ、この子たちを信じて良かったな」と思いました。大真面目で信じたからこそ、この子たちは三月も嘘の重荷を背負ってきたからです。

 

 あの時「一晩中、公園で話をしていた」という証言を覆すだけの材料は全くありませんでした。もちろん信じる材料もないのですが“嘘だ”と極めつけるには何らかの強い証拠が必要です。それがない状態で父親がやったように「そんなはずはない」と叫んでも、それは単に「お前は信じられない子だ」とか「俺はお前を信用していない」というメッセージを送るだけのことです。ところが子どもの方は、実際に嘘をついているにもかかわらず、嘘つきというメッセージに傷つきます。

 

 自分が嘘をついているかどうかなどということは大した問題ではありません(と子どもは考える)。しかし証拠もないのに信じてもらえないということ、そして頭ごなしにはっきり宣言されてしまうということは、ほんとうに切ないことなのです。

 そして疑われた瞬間、子どもはさらに一歩、心理的に遠ざかります。

 

 自分が嘘をついていても信じてほしかった――無償の愛とか無条件の愛とかいったものの一面はそうです――論理や理屈ではなく、無条件で信じてもらいたい、そういうものなのです。もちろん年中そうした態度で接せられてもそれはそれでたまりませんが、いきなり「お前を信じとらん」はないだろうというのです。

 

 私があの子たちを信じたのは、そうした深謀遠慮があってのことではありません。単純に騙されただけのことです。しかしそのために子どもたちは重荷を背負うことになりました。騙した者が常に腹の中でせせら笑っているとは限りません。人は、本当は嘘などつきたくはないのです。

 

 皆、まっとうに生きることがどんなに幸せかは、よくわかっているのです。