「中教審答申は真面目な提案なのか?」~学校教育はいい加減でいいと文科省は言った3

 来るべき本格的な教員不足に備えて、教師の働き方改革は急務だとしても、

 そう簡単に支援ボランティアが集まるわけもなく資金もない

 

 しかし、

「だから先生たち自身が手を抜いて、仕事を簡単にしなくてはいけない」

というのはあまりにも失礼だ

 

 教職に限らず、与えられた仕事は誠心誠意一生懸命あたる――それが日本人の美質だ

 教師をバカにするのもいい加減にしろ!

 

というお話

 

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ミュシャ「スラブ叙事詩《ルヤナ島のスヴァントヴィト祭》」)

 

【教育は人なり――とにもかくにも人材確保が急務】

 政府が急に教員の働き方改革に真剣になったのは、別に組合の突き上げが激しくなったからでも閣僚が改心して優しくなったからでもありません。

 

 新指導要領では小学校英語やプログラミング学習、特別な教科としての道徳など新しい内容がたくさん入ってきますし、出入国管理法の改正で外国人労働者も大量に入ってきますからその子弟の教育にも対応できる人材を集めなくてはなりません。

 すべてできなくてもよいですがブラジルの子が入ってきたらポルトガル語、メキシコの子が来たらスペイン語インドネシアの子どもが来たらインドネシア語、フィリピンだったらタガログ語と、児童生徒の支援ができる最低の外国語をそのつど学ぶ意欲くらいはないと困ります。

 質の高い教育には質の高い教師人材が必要と考えられますから、その意味でも人材確保は急務です。

 

 ところが現状を見ると社会全体は空前の人材不足で就職は完全に売り手市場。いっぽう教職はブラック公社の悪評紛々で教職志願者は減る一方――何が何でも学校を働きやすい場にしなくてはならないという要請はここから生まれてきます。

 

 しかし出てきたアイデアは、とにかく時間外勤務の上限を決めてあとは学校に考えさせようという、何とも呆れた方策だったのです。

 

 

【ボランティア活用や地域支援は真面目な提案なのか?】

 今月25日に出た「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」

は、どう読み込んでも真面目な雰囲気のするものではありません。

 

 例えばスクール・サポート・スタッフや部活動指導員の利用と言ったことを盛んに推奨していますが、国や地方公共団体に十分な予算措置を命じる場面はありません。部活動指導員など、あの予算潤沢な横浜市でも一校につき1.2人の配当予算しか確保できないのです。国が強力な財政出動をしなければ、絵に描いた餅です。

 

 いったい国は、普通の学校にいくつの部活動があって何人の指導員が必要なのか把握しているのでしょうか。さらに言えば、そもそも一日2時間といった短時間勤務に応えてくれる人材(しかも吹奏楽やバスケットボールの指導といった特殊技能を持った人材)が、世の中に何人いると思っているのでしょう?

 

 SSSだの部活動指導員だのと言っても、学校にそれを探すため負担が増えるだけで人が集まるはずもありません。そして結局、妹尾中教審委員の言うように、

「教師が自覚をもって、自分の仕事を減らすしかない」

というところに落ち着かざるを得ないのです。

 要するに仕事をするな、できるだけ簡単に済ませろということです。

 

 明るく気立ての良いラテン系の人々だったらすぐに応えてくれるかもしれません。あるいは計算高いどこぞの国の人々なら、さらに早く反応してくるかもしれません。しかし日本人はそうはいきません。

 

 

【日本人の働き方と学校】

 仕事を与えておいてしかも“ホドホドでいいよ”というのは誇りをもって働く人間に対する冒とくです。少なくとも日本においてはそうです。

 

 自動車工場で出荷前の車の、バンパーの裏まで磨いて送り出すのが日本の労働者です。買い物もせず出ていく客にも「ありがとうございました」と深々と頭を下げるのが日本の店員です。旅館に着けば仲居さんが訪ねてきて、お茶を入れたり世間話をしたりしながらさりげなく風呂の場所や施設の使い方、夕食の予定や入浴時間などを伝えていくのが日本式宿泊施設のしきたりです。

 

 いずれも無駄と言えば無駄、不要と言えば不要です。そんなことだから生産性が低いんだと言われればそれまでですが、それこそ日本人の日本人たる所以でしょう。子どもたちにもぜひとも伝えていかなければならない文化です。

 

 教師が過剰に働くのも同じです。人を教え導く者の使命感とか情熱とかいうのではなく、日本人だからおざなりな仕事はしたくない、人の役に立つ価値ある仕事がしたい、その一心なのです。他の業種と変わりありません。

 

 違うのは戦後70年間、道徳だの生活科だの、人権教育だの性教育だの、あるいは総合的な学習だのキャリア教育、安全教育、防災教育、食育、健康教育、消費者教育、地域連携、メディアリテラシー小学校英語、プログラミング教育とひたすら仕事が増えたにもかかわらず、教員定数はほとんど変わらなかったということだけです。

 

 業務は拡張するが人は増やさないという方針を、70年以上に渡って貫いてきた世界がどこにあるでしょう? そこだけが他の業種と違います。

 

 

【教師をバカにするな】

 そんな無茶に耐えてきた教師に向かって、

 子供のためになると、欲張りを言うとキリがない。(中略)時間は有限なのだし、教師などの人材も限られた数なのだから、教育効果のあるもののなかから選んでいくことが必要だ。

などと、どの厚顔が呟くのか。

 学校の行っていることで教育効果のないものなどひとつもありません。効果の保障されたものさえ次から次へと捨てながら今日に至っているのですから。

 

 授業準備上の工夫、学校行事、採点・添削、掃除、会議、その他の業務の多くは、文科省は細かく学校に指示していないし、義務づけてもいない。(正確に言うと、そんな権限は国にはない。)学校側(校長)の裁量のほうが大きい。

 だから校長裁量でやめて構わないというのはほんとうでしょうか?

 学習指導要領に書いてある学校行事も校長裁量でやめることができるなら、私はまず小学校英語とプログラミング学習をやめたい。

 

 これらはまだ教育効果が試されていませんし、英語は今後つぎつぎと出てくる優秀な翻訳装置のために、普通の人間の英語力など簡単に乗り越えられてしまいます。プログラミング学習に至っては、今後20~30年以内にコンピュータ自身がプログラミングする時代(シンギュラリティ)が来ると文科省自身が予測しているではないですか。そんなものを子どもにやらせるわけにはいきません。

 しかし実際に校長が「小学校英語とプログラミング学習はやめます」と言っても、認めないでしょう?

 

 

 提案に従えば残るのは授業準備上の工夫や採点・添削、掃除、会議ということになりますが、これは「そうは言っても教師がやめるはずはない」と見越してのブラフです。

 

 妹尾委員の紹介してくれた静岡県の小学校だって、どうせ文科省の指定校か何かで無理やり業務を削減して見せただけで、指定が解けて3~4年も経てば人事異動で入ってきた新しい職員・校長先生たちによって、

「子どもたちに地域の宝を見せないというテはない」「体力づくり、集団づくりといった面からもぜひ!」「遠足を復活させましょう」

となるのは目に見えています。それも中教審委員の見越してのことでしょう。

 

 どうせやめるなら学校評価だとか教員評価だとか学校評議員会だとか、あるいは教員免許更新だとか、異常に膨れ上がって4月・5月に学校を空けてばかりいる初任者講習だとか、直接子どもの成長に関わらない部分を削減すればいいのに、文科省鳴り物入りで始めた教師や学校を管理する仕組みについては、一切削る気はないのです。

 

 25日に出た「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」はとんでもないまやかしです。

 

 ただしこれまで学校が痛めつけられてきた経緯を、模式的に見るには都合のいいものなのかもしれません。

 

                         (この稿、次回最終)