カイト・カフェ

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「お忍び」〜言葉の進化と誤用

f:id:kite-cafe:20181215102912j:plain アルフォンス・ミュシャ「曙」)

 安室奈美恵さんの引退が大きなニュースとして取り上げられました。私は世代も違いますしファンでもないので関心はありませんが、かと言って一芸能人の引退がこれほど大きく扱われることに抵抗する気持ちもありません。

 何といっても平成の歌姫ですし、その安室さんの引退と平成の終焉が重なるということには、何らかの意味もあるような気もします。
 ただし次のニュースにはイラっとしました。

www.daily.co.jp

 【お忍び】

 この記事のどこにイラついたのか、全く理解できない人がいると思うので説明すると、私の国語感覚からし安室奈美恵に「お忍び」はあり得ないのです。この世で「お忍び鑑賞」をしていいのは皇族だけ、海外でもイギリス等の王族だけです。貴族レベルでもだめ、通常の国家元首でもだめ、ましてや芸能人などお話になりません(北朝鮮国内における金正恩委員長ならいいかもしれませんが)。

 ただし私の方が間違っているということもありますからネットの辞書で調べると、
「著名人がメディアなどを通じて自発的に公にすることなく、何らかの活動をするさまを表す語」(実用日本語表現辞典)
とあり、「アレ? 私が間違っていた?」ということになってしまいます。

 納得ができないのでさらに別の辞書で調べると、
1 身分の高い人が、身分を隠して外出すること。微行。 2 「御忍び駕籠(かご)」の略デジタル大辞泉
①貴人が身分を隠して、あるいは非公式に外出すること。 「 −の旅行」 ②「御忍び駕籠」の略。大辞林第三版)

 プログレッシブ和英中辞典(第3版)では“お忍び”の英訳“incognito (▼女性にはincognitaを使うこともある)”の用例として、
国王はお忍びで狩りに出かけた(The king went hunting incognito
あの買物客はお忍びの王女だ(That shopper is a princess incognito [incognita].)
とありますから、だいたい私の感覚に近くなります。

 さらに我が家にある「広辞苑」、なんと昭和44年発行の古文書に近い第二版ですが、それだと、
① 貴人の忍び歩きの尊敬語 ②御忍駕籠の略
「忍び歩き」は (身分の高いものなどが)他に知られぬように身をやつし外出すること。微行。

【言葉の進化】

 以上まとめてみると、
 “お忍び”は本来、王侯貴族が身分を隠して外出することで、イメージで言えばディズニー映画「アラジン」で王女ジャスミンが庶民の服装で市場に出たり、マーク・トゥエインの「王子と乞食」でヘンリー8世の嫡子リチャードが貧民窟のトムと入れ替わって街に出たりといったものだった、しかし現代では実用として、「有名人」が「公にすることなく活動する」ことも含まれるようになった、ということのようです。

 考えてみれば私の「貴族レベルでもダメ」は狭すぎて、水戸黄門のような江戸時代の殿様であっても“お忍び”はできるわけです。「私人として一般にまみれることのほとんどできない人が、身分を隠して外出すること」くらいに考えると、安室奈美恵の“お忍び”も妥当なのかもしれません。もちろん貴族でも、自由に動けるような人は“お忍び”にはならないでしょう。

 そう考え直してさらに調べると、
ベッキー、恋人とお忍び来場明かす」
稲葉浩志さん、B'zのイベントにお忍びで出かけるも誰にも気付かず」
「W杯日本戦出場のベルギー代表FW、お忍び来日で“清水寺&旅館ショット”公開」
と、今日的概念での使用例は結構あります。
 これにて一件落着です。
――と思ったら、しかしこれは何でしょう?

【お忍び居酒屋、お忍び旅館】

 ネットで“お忍び”を検索するとやたら出てくるのが「お忍び居酒屋」「お忍び旅館」です。まさか芸能人がこれを見て出かけるはずもなく(そんなことをしたらファンが殺到してしまう)、どう考えても庶民が“お忍び”で利用する居酒屋や旅館らしいのです。
 まさに 「貴人もすなるお忍びというもの、庶民もしてみむとてするなり」です。  

 では普通の居酒屋や旅館と何が違うのかというと、お忍び居酒屋は全室個室が原則、お忍び旅館はひなびた場所にある和風旅館ということで、どちらも人の目を気にしなくても済むというのが要点のようです。ただし前者が落ち着いて酒を飲みたい小グループも予定しているのに対して、後者は明らかに後ろめたい旅行客が念頭にあります。要するに不倫かそれに準ずる男女です。

 ここに至って私の語にたいする包容力はまた小さくなります。

 普通の暮らしのできない王侯貴族や有名芸能人が、庶民・一般人の暮らしを楽しみたくて密かに外出するのと、不道徳な男女関係が同じ“お忍び”でくくられるのはやはり間違っているように思うのです。

【言葉の誤用】

 ところでYahoo知恵袋にはこんな不埒な投稿もありました。
「私もお忍び旅行をしたいと思っていたのですが、辞書で調べたら身分が高いことが必要条件のようでした。しかしこれってどのくらい身分が高ければよさそうですか。
 個人的には、忍んでさえいれば身分なんて関係ないと思うのですけど、やはり定義がある以上、この条件は満たす必要があります。
 『皇族か貴族の家の出である』とか『芸能人である』みたいなのを言われると絶対無理なので、例えば、普通の会社だとどのくらい偉い人までお忍びになるか教えてください。何卒よろしくお願いします」
(大意)

 私だったら思わず「オマエ、バカか?」と書きそうなところですが、ベストアンサーに選ばれたコメントはやはりさすがでした。

『冒頭、お忍びの大前提が抜けてたので驚きました。例え偉くとも一般の35歳の独身が忍ぶ必要はないので、相手女性に当てはめては如何でしょう。握手会を欠席させて2泊3日湯河原の旅です。そして頃合いをみてプリクラや証拠写真を自ら流出、お忍び旅行発覚、卒業の手順で』
 本格的なお忍び旅行がしたいならAKBクラスの超有名芸能人をかどわかして、あとは派手にやりなさいということのようです。

 やはり“お忍び”は「貴人」のものであって「奇人」が真似してはいけないのです。