カイト・カフェ

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「見ない人、逃げる人」〜ひとの生き方と死に方(最終)

f:id:kite-cafe:20181215102631j:plain(ギュスターヴ・クールベ「オルナンの埋葬」)

 義姉夫婦は病気が発見された当初からネットや書籍でがんについて調べることをしませんでした。もちろんそういうやり方がないわけではありません。
 特にネットの世界は玉石混交、偽情報もあれば体験談と見せて広告でしかないサイトやブログがいくらでもあります。
 そういうものに惑わされることなく、病院を信頼し、医師とともに病気に立ち向かっていく、それも方法のひとつでしょう。その意味で、義母が亡くなった際に少しトラブルのあった地元の病院を離れ、大学病院に拠点を移したのは悪くない選択でした。
 少しでも信頼できそうな病院の方がいい――。
 ただしそれとて限度があります。

【医師淡々と、患者淡々と】

 昨年6月になっていよいよ抗がん剤がどれも効かなくなった時、医師は日本中の治験(治療の臨床試験)を探して通えそうなところを紹介してくれました。しかしそれは病院でなければできないことではなく、医師自身が教えてくれたように一般人でも調べられるサイト(例えば国立がん研究センター>がん情報サービス>)から選んでくれただけで、あとの手続きは患者本人がしなければならないのです。

 私にとってそれはある程度衝撃的なできごとでした。県内随一の大学病院の医師が一般向けサイトで情報を探している、つまり医師同士の特別な情報網といったものはなく、すべては私たちの手の届くところにあるということです。
 そしてその“すべて”を、私はすでに調べつくしているのです。何しろ義姉に適応しそうな治験は二つしかないのですから。

 医師はそこからひとつ選び、「こちらに連絡してみてください。書類は用意します」と告げます。けれど義姉が診察を受けたわずか一週間後、その治験は重大な副作用が生じて中止になります。
 続いて医師はもう一つの治験の可能性を示します。私にはそれが中止になった治験と同じものを別の病院でやっているだけのように思えましたが、医師はためらわず紹介し、義姉夫婦は3時間の列車旅で東京に出かけ、2時間の待ち時間を経て15分の診察で空しく帰ってきます。適応外との説明だったようです。

 医師は続いて、「私の患者でNK療法を受けた人がいます。こちらに連絡してみたらどうでしょう」と県内の病院を紹介します。
 そういうことの繰り返しが4カ月あまりも続きました。

 私は多少イライラしていました。いくら医師を信頼するにしても、こんな素人でも調べればわかることに毎回1時間もの通院時間をかけ、医療費を払うことはないと思ったのです。
 しかしだからといって別の助言ができるわけでもありません。標準治療以外のさまざまな道についてはすでに話をしてあります。

 あとはただ本人の気のすむまで同じことを繰り返し、様子を見ていくしかありません。それにそのころには「義姉は奇跡の人なのかもしれない」と思い始めていたので、事が進まないこともあまり苦にならなかったのです。このまま空回りしているうちにがんは治ってしまうかもしれない・・・・。

【恨み、つらみ、繰り言】

 しかし黄疸が出て、病気が目に見える形になってくると状況は一変します。このころから義姉はさかんに医者や病院の悪口を言うようになるのです。

 以前にも書きましたが勝ち気でがらっぱちで、まるで男にしか思えない雰囲気もある人で、決して素直だったり従順だったりする人ではないのですが、それまで不思議と自分のかかる医者と病院には文句を言わなかったのです。それがここにきてさまざまな不満を口にします。直接面と向かってではありませんが、義兄や私の妻や長姉に対して、繰り返し訴えます。

「(大学病院の主治医は)レントゲンが読めないんだって、だからこういう見立て違いをするのよ」
「せっかくステントを入れたっていうのに3カ月ももたないってどういうこと?」
「この(地元の)病院、何か雰囲気変よね」
「前の病院で入れたステントは3か月もったのに、どうして今度は1か月ももたないの?」 

 がんの発見から1年数カ月、医者に対して全く質問せず問い詰めもせず、ただ言われるままに抗がん剤治療をし、治験のために東京に出かけ、ここ(大学病院)よりも地元の病院と言われて傷ついても、まったく批判しなかった反動のように不満は一気に噴出します。
「私はがんのことはもうどうでもいいの、治らなくても構わない。でも黄疸だけは何とかしてほしい、医者だったらそれくらいして当然でしょ?」
 問い詰められても私たちには答えようがありません。
 黄疸はがんの結果ですからがんの治らない状況で黄疸だけをなくすというわけにはいかないのです。

 最後の東京行きから戻って歩くのもままならないのに、
「看護師に歩く練習をさせられた」
といって怒っています。
「あれきっと病院を追い出すつもりだよね。家に帰っても歩けるように今からリハビリさせられた・・・」
 しかしものの本には書いてあるのです。
「末期の患者はそれでもトイレだけは自分の足で歩いていきたい。トイレにも行けなくなったらいよいよ死を覚悟しなければならないから歩けることは大切です」
 好意的に考えれば、トイレに歩いて行ける期間(絶望しなくて済む時間)を1秒でも伸ばしてあげようという配慮だったのかもしれません。
 それなのに義姉はいちいち悪く解釈する。
「食事がまずい」「扱いが悪い」「痛み止めがまるでダメで全然効かない」

「もっと光を!」はゲーテの最期の言葉とされていますが、義姉の最期の言葉は「もっと薬を!」でした。痛みに耐えかねてより多くの鎮痛剤を要求し、それが命を縮めたと私は思っています。
 痛みに耐えるといったことも苦手な人でした。

【後悔、運命の分岐点と角度】

 市川海老蔵夫人だった小林麻央さんは亡くなる前年9月のブログに、こんなふうに書いておられます。

私も
後悔していること、あります。

あのとき、
もっと自分の身体を大切にすればよかった
あのとき、
もうひとつ病院に行けばよかった
あのとき、
信じなければよかった
あのとき、、、
あのとき、、、

 義姉にもがんが発見されてから亡くなるまでの1年10か月間に多くの節目がありました。

 長姉の言う通り、発見された当初からNK療法のような代替治療を受けておけばよかった、
 無意味な二度目の治験なんか行かなければよかった、
 眠っているがん細胞を起こすような強い代替治療をしなければよかった、
 無理をして東京の“権威”に診てもらうようなことをしなければよかった、
 医者を信じるなら最後まで信じ、穏やかな気持ちで入院生活を送ればよかった。
 運命を受け入れ、家族に感謝の気持ちを伝え、早い時期から事後の算段をつけておけばよかった。

 各々の運命の分岐点で義姉は常に悪い方を選び続けた、角度にしてわずか5度くらいしかない選択の幅の中で、選んではならない方を選び続けた――私はそんなふうに考えています。
 しかしなぜそんな選択しかできなかったのか――。

 実はその答えも分かっているのです。
 義姉が病気に対してあまりにも無関心だった、一番近くで支援すべき義兄も一緒に無関心だった、それが原因です。

【見ないようにしていた】

 大きな病院に行くと必ずあちこちにリーフレットスタンドが置いてあって、入院の手引きやら受診の仕方など手に入れることができます。その中に「家族ががんだと言われたら」とか「各種がん 受診から診断、治療、経過観察への流れ」といったがん専門のものもあって、試しに 国立がん研究センターのものをめくってみると一番最初に出てくるのは「あなたに心がけてほしいこと」です。項目がふたつあって、そのひとつは「情報を集めましょう」、もうひとつは「病気に対する心構えを決めましょう」です。

 きちんと情報を集めれば、発見された段階で相当な覚悟を決めなければならなかったこと、治療の選択肢は少なく、大学病院へ行こうと国内最高の権威にかかろうと結果に大差はなかったこと、代替療法は初期にこそすべきなこと、それでもどんな状況でも奇跡はあり得ること、医師や看護師は基本的に患者のために労苦をいとわないこと――、そういうことも分かっていれば、あんなに嫌な思いも苦しい思いもせずに済んだのかもしれません。

 あの賢い義姉や義兄がなぜあそこまで無関心でいられたのか――。それについても葬儀の後で義兄から直接聞くことができました。
 とにかく怖くて先のことを考えたくなかった。目の前だけを見て、そこにあることだけに対処して今日まで来た・・・。

【逃げる人】

 昨日、私は、
 経験上、がんに打ちひしがれる人と戦う意欲満々の人は死ぬのです。どちらも強烈なストレスですから。
 そうではなくノホホンとした人、何とかなると思っている人、何とかならなくても仕方がないと気楽に構えられる人、そういう人たちは生き残ります。私はそう信じています。

と書きました。
 ここでは三種類の人間が想定されています。「打ちひしがれる人」と「戦う人」、そして「気楽に考えられる人」です。しかしなぜ私は「逃げる人」のことを考えてこなかったのでしょう。

 昔いた「ヒデとロザンナ」という夫婦デュエットのヒデは、結腸がんのために47歳という若さで亡くなりますが、亡くなるギリギリまでがんが怖くて病院に行かなかったそうです。
 つい先日もあるテレビ番組で、「がん検診に行かないのはなぜか」という調査の一番多い答えが「がんが見つかるのが怖いから」という矛盾したものであることを紹介していました。

 最初の一年間の義姉夫婦の不思議な無関心や落ち着きも、安定した心理状態だったのではなく、現実を見まいとする必死さから来るものだったのかもしれません。

 私がしばしば疎まれたのも、そんな努力に水を差すからです。義姉は時々私のことを、妹である妻に「Tさんは分かっていない」と言い、私も妻もその意味が分からなかったのですが今こそ分かります。がんに関する情報なんて持ってきてほしくなかったのです。考えることも向き合うこともいらない、みんなで一緒にしらばっくれていること、それが一番よかったのです。

 最終末にあれほど医師や看護師を憎んだのも、結局は病気を見せつける人、がんを体現している人たちだったからに違いありません。
 それを理解してあげなければいけなかった。

 この1年10カ月の間に気づいたのは、義姉の思わぬ弱さと依存性でした。
 本当は弱くて頼りない人が、精一杯肩肘を張って生きてきたのです。それが死を前にして生の姿を見せるようになった。それが人間の生き方であり死に方なのだと、手遅れになったいま、初めて私は理解するのです。

 可哀そうなことをしました。ほかにやり方はいくらでもあったのに。

(この稿、終了)