カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「誰にでも役割がある」~コロナ禍のもと、年末年始をどう過ごすか②

 田舎では人々が戦々恐々として暮らしているのに、
 都会では毎日飲み歩いているバカがいる
 ――と田舎人は感じていたが、結局、
 「結局、都会でも田舎でも、自粛する人は一貫して自粛し続け、
 警戒心の薄い人はどこにいても飲みに行く、遊びに行く」
 それだけのことだ。

という話。

f:id:kite-cafe:20201217153852j:plain(写真:フォトAC)


【昨日の嘆き】

 昨日は、
「新型コロナの感染者がほとんどいない田舎で私たちがこんなに気を遣っているのに、直近1週間で10万人あたりの感染者数が23・8人にもなる東京のど真ん中で、夜の繁華街に繰り出して仲間と酒を飲んでいるなど、都会人は何をしているんだ」
と怒鳴り上げたあと、
「しかし10万人あたりの感染者数が23・8人という状況は100人あたり0.0238人、つまり目の前の東京人が感染している確率は0・0238%ということ。これでは深刻になるのは難しいよな。もう10カ月以上続いているのだから、緊張感を持続させるのも難しいしね」
と理解を示し、
「しかし状況はますます悪くなってこのままでは娘も息子もいつまでも帰省できず、1歳の孫はどんどん違う人間になってしまうし、93歳の母は孫やひ孫に会うことなくコロナ以外で死んでしまいかねない、どうすりゃいいんじゃ!」
と嘆きまくって話を終えました。

「理解はするけど都会人よ。
 もうちょっと頑張ってもらえないものか!」

 ところが昨夜のNHKニュースウォッチ9を見て、“ああこういうことなのか”と考えさせられる場面があったので紹介します。


【二極化、一方はすでに限界が来ている】

 それはNHKが人の移動に詳しい専門家としてインタビューした早稲田大学佐々木邦明教授の次の言葉です。
「自粛の呼びかけがそれほど大きな効果を持たなかったのは、そういったものを非常に気にしている人はすでに自粛しているだろうし、そうでない方は外出しているということ」
だから今後のGoToトラベルの
「事業の停止は、自粛よりインパクトが大きいと思う」

 ああ、そうだ。
 やる人は既にやっている、しかもずうっとやっている
のです。これ以上自粛しろと言われてもやることがありません。
 街頭のインタビューでも、
「不要不急の外出の自粛、手洗い、マスク、換気、これ以上なにができますか?」とか、
「『勝負の三週間』と言われても新たに取り組むことは何もありません」とか、
そういう人はいくらでもいます。

 しかし他方には「ずっと家にいるとストレスが溜まっちゃって――」という人もいます。
 先月、テレビのインタビューを受けていた男子大学生は、熱があるのに友だち7人と居酒屋に行き、うち3人は帰宅したものの残り4人と二次会、続いて朝までカラオケと遊びまくった挙句、後日4人全員がPCR検査で陽性になったと言います。
 親と同居していましたから家族全員が濃厚接触者となってしまい、父親と兄は会社を欠勤。学生4人が感染者となった大学でも講義が延期となります。本人はメチャクチャ反省していましたが、こんなふうに事前に想像力が全く機能しないという人も世の中に入るのです。

 したがってさらに踏み込んで今以上の自粛、となると、こういった今までほとんど自粛してこなかった人にしてもらうしかないことになりますが、その点で今回は甘かったのかもしれません。

 4月の緊急事態宣言下では「人との接触を8割減らせ」といった恐ろしい数値目標が掲げられ、全国の“自粛警察”が営業を続けるパチンコ屋に大挙して押しかけたり、県外ナンバーの車を傷つけたりといった過激な行動に走ったりしましたから、さすがに能天気な人でも自粛せざるを得なかったのでしょう。ところが 今回はそこまでの圧力はありませんでした。
 GoToイートもGoToトラベルも続いていて、「経済を回せ」は社会全体の、そして自らに厳しい自粛を課さない人たち取っても、大義名分でした。

 では今回も4月同様、明確な数値目標を示し、自粛警察を呼び起こして厳しい自主管理をやればよかったのかというと、そうとも言えないので困ります。


【誰にでも役割がある】

 映画「ロード・オブ・ザ・リング」で、主人公たちの後をつけてきた怪人ゴラムに気づいた主人公が「もっと早くに殺しておけばよかったんだ」と言うとリーダーの魔法使いが、こう答える場面がありました。
「死に値するものが生き永らえ、生きていて欲しいものが死ぬ。しかしお前は死者に命を与えられるのか?
 軽率に死の判定を下してはいけない。善か悪か分からないがゴラムも役目を持っている。それが何かはやがて明らかになるだろう」

 そして物語の最終盤で、あれほど無意味と思われたゴラムの存在が、決定的に重要な役割を果たすのです。

 同様に、第三次感染拡大のさなかにも関わらず毎晩のように飲みに出かけ、大声でしゃべり、歌い、感染を広げるかもしれないということに想像力の働かない人たちも、一定数いる以上、何らかの社会的役割があるのかもしれません。

 彼らは必要だから存在する、そう考えると怒るのではなく、別の方策を考えようという気持ちに傾いていきます。

(この稿、続く)