孫1号のハーヴは小説ならいくらでも書けるのに、
日記だとまったく書けない、苦労している。
なぜ日記はあんなに大変なのか、
それを、どう克服すればいいのか、
という話。
(写真:フォトAC)
【なぜ日記はつまらなくなるのか】
昨日は私の孫の1号が小説執筆に夢中で、“小説”ならいくらでも長く書けるという話をしました。しかし実は話の重心はその後ろにあって、「(“小説”ならいくらでも書けるのに)日記はまったく書けない、苦労している」ということについて考えてみたかったのです。
ところで13年前に父が亡くなったあと、母は精神的にひと区切りがついたところで記憶を整理しようと、父の日記を初めて開いて見たようなのです。で、見た感想は――、
「全然面白くない。何も書いてなかった・・・」
実際は何も書いてなかったわけではなく、今日はこれがあったあれがあったと事象の記録はあるものの、感想とか思いとかはまったく書かれておらず、だから読んでも何も浮かばずさっぱり面白くなかったということなのです。いかにも父らしい側面ではあります。
かく言う私も父の亡くなった翌年から今日まで、13年に渡ってWeb上とExelファイル上に(というのは同月同日の過去の記録を見たいから)日記をつけてきましたが、自分で言うのも変ですが、これがまったく面白くない。記述を手掛かりにあれこれ思い出せば面白い面もあるのですが、記述自体は単なる「記録」でそれ以上に楽しめるものではないのです。それに記述がしばしば丁寧さを欠いて、自分でも何があったのか分からない部分もあります。そんなものを13年も続けてきてしまいました。
おそらく父も私も、読み手に対する意識がなく、思いつくままに事実を列挙するから分かりにくくなるのです。「日記は未来の自分を読者とした随筆だ」くらいの心意気と意識があれば良かったのですが、ただ綿々と事項を羅列するだけの日記はただの記録で、だから面白くないのです。
こうした事実が示すのはよく知られた単純な真理です。
「読者を意識しない文章はつまらない」
【日記と言えど、読者を意識する】
大人の日記は「将来の自分を読者とする」でいいのですが、子どもの場合はやはり「誰か」具体的な人物は対象である方が書きやすいのかもしれません。
アンネ・フランクは日記の中で「親愛なるキティ」と架空の人物に呼びかけていますし、昨年亡くなった神戸市の元小学校教師、鹿島和夫さんは「私に向かって『せんせいあのね』といって書きなさい」と指示することで、子どもがその日一番話したい話を引き出すこと成功しています(一年一組 せんせいあのね こどものつぶやきセレクション)。
私は今でも、少なくとも小学校1~2年生には「先生に話してごらん」「先生に話してみよう」が通用するように思っています。先生が好きな子ななら、3年生でも4年生でも、場合によっては中学生でも通用するやり方です。
ワンオペ状態ならパパかママ、いずれかいつもいない方に向けて語り掛けるとか、大好きな祖父母、叔父叔母、従兄弟や友だちを想定して書く、というのもいいかもしれません。1セット7人用意して、毎日違う人に向けて書く、というのも試してみる価値がありそうです。
【とりあえず書き方を類型化する】
文章が苦手な人のひとつの類型として「書き出しが分からない」という人がいます。こういう人たちには書き出しを類型化してしまうと楽なのです。
「せんせいあのね」から書き始めなさいと指示した鹿島和夫先生の取り組みはその意味でも成功していますが、日記の対象者が定まらない場合は、「(今日の)いつ」「どこで」「何を」までをとりあえず一気に書く練習をするといいのかもしれません。
小学校の教員をしていますと「今日は」としか書いてない日記帳に出会うことがしばしばあります。これだと「今日は」は「こんにちは」としか読めませんから私も仕方なく赤ペンで「コンニチハ」と書いて返しますが、もちろん子どもは日記帳であいさつしたかったわけではありません。
おそらく帰宅してすぐに日記帳を開き「今日は~しました」と書こうとして「今日は」までは書いたものの、何を書いたらいいのか思い出せず、あとでやればいいやと放置したまま忘れて翌日提出した日記です。
ほんとうは「今日は」で手を止めてはいけなかったのです。止めるなら「今日は~しました」まで書いてから休めるべきでした。そこまで書いておけば、あとは「どのようにしたか」「それをどう思ったか・どう感じたか」の2点を足せば日記の体裁が整います。
「いつ」「どこで」「なにを」「どのように」して「何を考えたのか」。とりあえずそれが当面の目標となります。短くてもいいのです。あとは徐々に後半の2点を膨らましていけばいいだけのことですから。
【見た通り書き、感じた通り書けるなら苦労はない】
私たちは子どもたちに「何でもいいから」「見た通りに書きなさい」「感じた通りに書きなさい」と言ったりしますが、この最悪な3項目を口にするときはまず間違いなく、自分がどうアドバイスしたらいいのか分からなくなっているときです。
「何でもいい」と言ったって人の悪口だの「死ね」だの「殺せ」だのを書いてはいけないことは、子どもにも分かります。「何でもいい」わけではないのです。さらに言えば世の中には書く価値のあるものとそうでないもののふたつがあって、しかしその境目がはっきりしないというのは小学生でも分かることです。例えば夕飯のおかずについて書くなら、そこには特別な食材とか調理とか、あるいは特別な視点とかがないと書いてはいけないと普通は思います。
先生は何を書いてほしいのか、何を書いたら誉めてもらえるのか――分からないのはその部分です。
さらに言えば、見た通りに書き、感じた通り書けるなら、もう作文の学習はしなくて済みますし、そのための日記ならそれも必要なくなってしまいます。見た通り、感じた通りに書けないから練習が必要なのです。
これについては半世紀近く前に読んだ丸谷才一著「文章読本」(1977年、中央公論社)にとても重要な二つの示唆があり、私は今日までずっとそれを大切にして励行してきました。
それは「書くように感じろ、書くように考えろ」と、「ちょっと気取って書け」のふたつです。
(この稿、続く)