昔、イザヤ・ベンダサンは「日本人とユダヤ人」において、異民族に繰り返し蹂躙されたイスラエル人を「ハイウェイの民」、第二次大戦後の一時期を除くと一度も外国人の支配をうけることのなかった日本人を「別荘の民」と呼んでそれぞれの特性を説明しようとしました。イスラエルに比べると本当に恵まれていると。
しかし日本人はユーラシア大陸の東で安穏と日々を送っていたわけではありません。異民族の侵入のなかった代わりに、この国はありとあらゆる天災に繰り返し襲われたからです。
【日本人と災害】
明治時代、天気予報というものは全く当たらなかったようで、日露戦争では「測候所」が弾除けのおまじない(あたらない)だったそうですが、私が子どもだった半世紀前だってさっぱり当たらず、台風予想は規模も進路も随分といい加減でした。おまけに治山治水の技術は今とは雲泥の差、家屋のつくりもずっと脆弱でしたから、いったん災害に襲われると大変な被害をこうむりました。
昭和の三大台風と呼ばれる室戸(1934)・枕崎(1945)・伊勢湾(1959)の三つだけでも、死者行方不明者はそれぞれ3000人、3800人、5100人余りと、桁が違います。津波も、東日本大震災(死者行方不明者1万8500人余)は別格としても、日本海中部地震(1983)で100名余、北海道西南沖地震(奥尻島津波1993)で200名余が死者・行方不明者となっています。
地震被害だと関東大震災(1923)が10万5000人余、阪神淡路大震災(1995)が6400人余。1948年の福井地震では3800名が死者行方不明者となっていますが、被害者が人口20万人ほどの福井市を中心としたごく狭い範囲だったことを考慮すると、とんでもない大震災だったことがわかります。
さらに歴史をさかのぼって明治三陸大津波(1896)だとか、安政大地震(1854〜1855)とかまで考え始めると、日本人はいかに災害に振り回されてきたか分かろうというものです。
【敢えて災害と戦わない】
それではそうした災害に対して、日本人はどのように戦ってきたのか、というのが次のテーマになるのですが、私は最近、「敢えて災害とは戦わない、逃げて実を取る」といった対応の仕方があることを知りました。それはNHKドキュメンタリー「大江戸」(第三集)から学んだことです。
江戸城本丸を焼いた上に6万8000人もの被害者を出した明暦の大火(1657)以降、幕府は様々に消防組織や設備、防火対策などを行ってきました。大名屋敷などを郊外に移転させて延焼を防ぐための火除地を確保したり、耐火建築を奨励したりといったことです。そして1720年、享保の改革の一環として、ついに私たちの良く知る町火消「いろは48組」が結成されるのです。
身軽で高いところも平気な鳶職人が中心の組織で、棒の先に鳥の嘴に似た金具を付けた鳶口と呼ばれる道具と梯子を武器に、風下の家を次々と破壊・撤去することで延焼を防ごうとします。これを破壊消防と言います。十分な水も放水設備もない江戸の町では、非常に合理的な消火方法です。
――と、ここまでは知っていたのですが、子どものころからずっと疑問に思っていたのは、いくら専門家とはいえ、またいくら木造の家とはいえ、大火に際して短時間に広範囲を破壊・撤去するというのは、並大抵の事じゃないな、ということです。
幅100メートルで押し寄せてくる火事を、前後50メートルの空地で防ごうと思えば5000平方メートル、ざっと1500坪です。「九尺(くじゃく)長屋」とか「二間(にけん)長屋」と呼ばれる庶民の家は間口が九尺(2.7m)奥行二間(3.6m)の3坪ですから、ぎっしり詰めると500軒。もちろんぎっしりなんか詰まっていませんからその半分と考えても250軒をあっという間に壊さなければならないのです。
そんな神業をどう果たしたのか?
【大火の経済学】
NHK「大江戸」の答えは、あきれるほど簡単でした。
「最初から壊しやすい家を建てておく」
のです。
番組では発掘された江戸時代の火事跡を紹介していましたが、そこから出てくる“燃え残り”はあきれるほどペラペラなのです。よくこれで家が建ったと感心するほど薄っぺらな住宅建材でつくるので、破壊・撤去も簡単にできたというわけです。
江戸では三年に一回の割合で大火がありましたから、家は“燃えるか壊される”が前提です。一朝火事が起こったらすべての住民は、破壊消防の対象として住居を供出せざるを得ません。
家財道具はリサイクルが豊富な時代で、「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんもたった一ヶ月の旅行のために一切売り払って出かけるように気軽に買い直しができたのでしょう、しかし家屋はそういうわけにはいきませんーーと思っていたら、幕府は無慈悲に接収して破壊してしまう代わりに、十分な資材を木場に常時保有させていたのです。もちろんペラペラの貧弱な建材です。
さらに緊急支援用のコメも常に50万人分備蓄してあったといいますから、大火への備えと復興への準備は常に十分できていたわけです。
そこには失うものへの未練など微塵もなく、あるのは未来に向けた目だけです。
【災害のもたらすもの】
「火事と喧嘩は江戸の華」というくらい江戸っ子にとって火事は日常的なものでした。ですから火事のたびに我が身を嘆いていたのでは生きていけません。それがおそらく昨日申し上げた「前向きな諦観」の源泉なのでしょう。
日本人は苦難にも悲劇にも強いのです。
そして災害や災害の元となる事象から、私たちが得て来た恩恵というものにも、いま一度、目を向ける必要があります。
(この稿、続く)