カイト・カフェ

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「わが子を確実に東大に入れる法」〜他人の子育て論を信じてはいけない 1

f:id:kite-cafe:20201128210651j:plain ジョン・エヴァレット・ミレー 「北西航路」 (1874)

【6月になりました】

 6月になりました。
 とはいえ6月というのはほんとうに何もない月で、全国的に有名な祭りと言っても加賀百万石まつり(今日から6月3日まで)くらいなもの、年中行事としてはさっぱり盛り上がらない「父の日」(第三日曜日)、ほとんど知られていないプロポーズの日(第一日曜日)、沖縄慰霊の日(23日)は大切ですが、あとはこれと言って何もない夏至(21日)が残るくらいです。
 一年で唯一、祭日が一日もない月で、そんなところから「のび太の嫌いな6月」というのも有名な話になりました。
 入梅の時期で浮かれた話はどこにもない、じっくり、着実に、仕事や学業に励みなさい、ということかもしれません。
 頑張りましょう。

【ひとはどんな情報に出会っているのだろう】

 さて、私も昨日は雨のために畑の世話ができず、それもあって朝からあちこちの教育サイト、子育てブログなどを読み漁っていました。

 世間は今や何かあるととりあえずネット検索から始める時代です。ですからどんなことに困って、どんな検索ワードを入れると、どんなページに行きつくのか、ちょっと調べてみようと思ったのです。

 例えば「子どもが万引き」と入れると0.43秒で約800万件がヒットします。「ADHD 子ども」で375万件。「東大に入る子」は約600万件です。
 もちろん全部を読むことなんかできませんが、パラパラと流し読みすると(あれ?ネットでもパラパラでいいのかな?)、やはり今でもネット社会は玉石混交。いいものもありますが、くだらないもの、何の役にも立たないもの、そして間違った知識満載のものまで多種多様です。

【わが子を確実に東大に入れる法】

 20年程前、私はある研究機関に出向していて、そこで児童心理学・発達心理学を専門とする大学の先生にたいへんお世話になりました。
 研究室にうかがうとそこには炬燵があって、学生さんと一緒にみんなで足を突っ込んで、あれやこれやお話を伺うのが楽しみでもあり勉強でもありました。
 その席であるとき、二人のお子さん(お嬢さんと息子さん)がともに東大に入ったのは、自分が開発した学習法によるものだという話が始まったことがあります。

 合格するために必要な生活習慣だとか考え方だとか、それから先生が独自に開発された教材の話だとか、一通り話されたあと不意に、
「Tさん(私のこと)、お宅にちっちゃい子、いたよね」
 アキュラがまだ4歳くらいのころです。
「その子、オレに預けないか? 今からやれば絶対に間に合うから、オレが東大に入れてやる」
 それからまたひとくさり話を続け、もう一度、不意に思いついたというふうに、
「あ、Tさん(私のこと)。さっき息子さんを必ず東大に入れると言ったけど、知能指数が130以上ないとダメだからね」
(やっぱ、そうだろ)
 私は心の中で思いました。別にがっかりもしません。どんな子どもで100%確実に東大に入れる方法なんてありはしないと、最初から思っていたからです。

 ただし勉強になりました。
 このとき先生から学んだのは、次のような事実です。
 東京大学は、知能指数130以上の子が、特殊な勉強をして初めて受かる大学だ
(ちなみに「医学部」もこの括りに入ります。「特殊な勉強」には当然、「異常な量の勉強」も入ってきます。知能指数が160だとか170だとかいったレベルなら、その「特殊な勉強」も必要なくなると思いますが)

 知能指数130というのは、ざっくりとイメージで言うと「10歳(小4)の時に13歳(中1)の子と同等にモノが考えられる力」ですから、そうとうに頭がよくなければなりません。知能指数150なら10歳なのに中3レベル、180だと高3レベルですからほとんど天才の域と言えます。
 私はそんな天才たちをたくさん知っていましたから(「天才たちの世界」~生まれながら違う人たち - カイト・カフェ)、アキュラは最初から対象外で、「オレが東大に入れてやる」がマユツバなのは分かっていたのです。
「わが子を確実に東大に入れる第一歩は、頭の良い子を産んでおくこと」
に他なりません。

【発信者自身の気づかぬ偏向】

 先生に悪気があったわけではありません。東大に合格させる話を始めた段階で知能指数130未満の人間のことが頭になかっただけです。
 同様に、人が誰かにものを語る際、自分が一定の枠組みの中で話していることを忘れてしまう、あるいは気づかない、そういうことがあります。
 聞き手の方も、それが一定の枠組みの中から語られていることに無頓着である場合が少なくありません。
 しかし話し手がどんな人かということが、決定的に重要な場合だって少なくないのです。

 例えば、1950年前後にアメリカで一世を風靡した「スポック博士の育児書」。この作者のベンジャミン・スポック博士はどんな人だったか――。

  1.  本に書かれているような育てられ方をし、自身も自分の子どもたちをそのように育てている。
  2. 自身はそのように育てられなかった。しかし本を書き、実際に自分の子はそのように育てている。 
  3. 自身はそのように育てられなかった。そして自分もそのような子育てをしていない。しかし本にはそれと正反対のことを書いている。

 三つの場合の違いは、著書の評価そのものを大きく変えてしまうでしょう。

 ネットで拾ってくる記事は、最初から眉にツバをつけて読むべきものです。しかしそれは単にニセ情報に気をつけろというだけではなく、どんなに誠実に書かれたものであっても、著者自身が気づいていない偏向は読者の方で修正していくしかないということです。そうしないとどうしても間違った方向に進んでしまうのです

(この稿続く)

 

〔参考〕

kite-cafe.hatenablog.com