カイト・カフェ

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「答えのない問い」〜小学校英語は作文より大切なのか?

 オバちゃんから電話がありました。
 オバちゃんと言っても親戚筋ではなく、中学校時代の同級生です。結婚して苗字が変わったのに、旧姓からつけられたニックネームで今も呼ばれています。

 中学生の頃はむしろ男の子みたいな爽やかな印象で、“オバちゃん”の愛称もかえって違和感がなかったのですが、中年になってすっかりそれらしくなると“オバちゃんをオバちゃんと呼んでいいのか?”という素朴な疑問に悩まされたりします。しかし本人が平気みたいですので、そのまま呼ばせてもらっています。

 さてそのオバちゃんは結構面倒くさい人で、日ごろ付き合いがあるわけでもないのに唐突に電話をかけて来て、無理難題を吹っ掛けることがあるのです。特に私が教員になってからは、学校や担任に対する不満をとりあえず私にぶつけて、その反応を見てから必要なら学校に出向くと、そんなやり方をしているフシがあります。
 ただしそれは私にとってもかなりありがたいことで、その都度、“ああ保護者は、こういうことをこういうふうに考えるのか”“こんなふうに答えたらどうかな”と勉強になったりしました。
 今回持ち込まれたのもこんな話です。  

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【学校文集がなくなる】

「あのさ、Tくん、孫の学校のことだけどさ」
 還暦を過ぎた私を“Tくん”と呼んでくれる女性がいるのは嬉しいことですが、中学の同級生と“孫”の話をすることには別の感慨があります。
「もらってきた学校だよりに『今年度を最後に、学校文集を廃止します』って書いてあるんだけど、これ、どういうことよ?」
 私はもう学校現場を去っていますし、オバちゃんの孫が通っている学校とは縁もゆかりもありませんから答えようがありません。
「説明はなんて書いてあるの?」
「それがさ、『1、授業時数の確保のため。来年度から英語も始まります。2、保護者の経費負担削減のため』と、それだけ。作文を書く時間もないってこと? 負担削減って、どんだけ皆さん貧乏なわけ?」
 それを聞いて私はハハンと思いました。
 日ごろから学校側に立ってものを考えることに慣れているので、大まかな想像はついたのです。

【作文指導は地獄、時間は果てしなくかかる】

 中学校の国語の先生がどう作文指導をしているかは知らないのですが、小学校についてはよく承知しています。ひとことで言って、とても大変です。

 特に学校文集というのは下手をすれば何十年も手元に残ってしまうものです。自分の分は抹殺してもかつての同級生が後生大事に保存していたりします。学校保管の文集を数十年後、図書館の隅で書いた本人の実の子が、ニヤニヤ笑いながら読む可能性だってあります。
「父ちゃん偉そうなこと言ってるけど、つまらねぇ小学生だったんだなぁ」
 そういったことにならないよう、担任教師は全力を尽くしますが、数十年後に恥をかかせないだけの優秀な文章を作らせるのは容易ではありません。

 学校文集は旅行記などと違ってテーマを狭く絞ることができません。基本的に自由ですから、校庭の真ん中で子どもを解き放ったみたいに、皆あっちこちに走り出してしまいます。そのいちいちを捕まえて指導するようなものなので大変なのです。教師ばかりが疲弊する。
 もちろん構成カードなどを使って書きたい内容をメモにして、それをあちこち並べ替えて全体構成を考えるといった工夫はします。しかしそんなのは優秀な子にとってむしろ回りくどく、一発原稿用紙に向かった方がはるかにいい作品ができたりします。その一方で、同じ教室にとりあえずカードすらかけない子もいたりします。
 そんなさまざまな子たちを教卓に呼びつけ、さまざまに話をしながらイメージを固め、子どもの頭に浮かんだことを箇条書きにさせ、いったん自席に返す。その間もカードや作文を見てもらいたい子は列をなして、すっかり飽きた子は後ろで喧嘩を始めたりする。

 信じられないくらいの速さ――例えば原稿用紙2枚分を30秒足らずで読んで問題点を紡ぎ出し、改善策を子どもと一緒に考え、話し、励まし、席に返してやるまでを都合2分で済ませたとして、35人学級で70分! 1時間(45分)の授業時間を25分も伸してしまうわけです。
 子どもの作文指導を2分で済ませたというだけでも心痛むのに、実際には授業中に全く見てやらない子が何人も出ているのです。だから作文指導の時間は4時間、5時間とやたら長くなる。優秀な子はその間、自習するしかない、そうでない子はいつまでも悩んでいる・・・。

 そうなるとここからが担任の腕と誠意の見せ所ということになります(ずるいことも含めて)。
 子どもたちの個性・独創性・独自性を大切にしようとすれば(誠意)、時間は果てしなくかかります。そうではなく、担任がある程度線路を敷いてやる、聞こえのいい言葉で言えば「お手伝いしてやる」(腕)ことにすれば、時間はかなり短縮できますが、腕を振るえば振るうほど作文は「その子のもの」ではなくなっていく。

 現実問題として最終的には同じ文集の中に「児童生徒100%」の純粋な作文もあれば「児童生徒40%、担任60%」のブレンド作文も同時に存在することになります。最後のひとりの「40%の『その子』」を残すために、担任は大変な苦労をしているわけです。
 しかしそれでも40%は残せたことに担任は満足しなくてはなりません。やりかたによっては10:90の作文だってよかったわけです。「数十年後はどうせ覚えていないだろう」とうそぶくことだってできたわけですから。

【作文指導がなくなるわけではない】

 もちろん学校文集がなくなっても作文指導がなくなるわけではありません。
 国語の授業には「作文」の単元があるのでその時間内に指導しますが、これはいわば自動車運転の教習所内講習みたいなもので、たくさんの枠を与え(例えば“主題をそろえる”とか“起承転結といった形式をそろえる”とか“書き出しを同じにする”“接続詞に注目させる”など)、その内部だけで試行するもので、「さあ自由に書きましょう」(路上講習)というわけにはいきません。あくまでも「基礎の基礎を学ぶ」範囲にとどまります。
 問題は「それで作文力がつくか」ということです。

 私は反語的に「つかない」と言いたいのではありません。よく分からないのです。
 教育の最終的な部分は常にそうです。今行っている指導でほんとうに力はつくのか、その力は将来役に立つのか、そもそも生きて行く上で作文力は必要なのかといったことは、厳密には証明できないのです。

【週2時間の外国語学習で英語は身につくのか】

 同じ論理をつかえば、オバちゃんの孫の学校で学校文集を破壊してしまった小学校英語(正確に言えば「外国語」)、現在の予定では週2時間相当ですが、この程度の学習で英語力はつくのか――それも未知数です。

 よく、
「中高あわせて6年間も勉強しながら、日常会話ひとつできない日本の英語教育は間違っている」
といった言い方をしますが、下手をすれば「小学校3年生から10年間も勉強しながら日常会話もできない――」といったことにもなりかねません(たぶんなります)。
 実際問題として私たちが今、一念発起して英会話を身に着けようとしたら、週2時間の学習でなんとかなるとはだれも考えないでしょう。

 そもそもこの国に暮らしている限り、英語なんてできなくても少しも困りません。英語の映画も書籍も、片っ端吹替ないしは翻訳されたものが出てきます。1億2600万人も人口があると相当に難解な作品・書籍であっても十分採算が取れるからです。
 海外旅行に行くにしても、必要最低限の会話は翻訳ソフトで事足ります。
 私は最近ハマっているVoiceTraは31言語に対応し、そのうちの16言語はスマートフォンに話しかけるだけでその場で外国語に翻訳・音声出力してくれます。こうした翻訳ソフトは2020年に向けてとんでもなく進化していくはずです。

 こんな国ではどんなに英語を学んだところで、それなりの就職をしないとみんな忘れてしまいます。かつて勉強したはずの微分積分、摩擦係数やら化学式やらが全部忘れ去られたように、英語だけが使わなくても知識として残るなどありえないのです。

 話を元に戻して、
 それでもなお、外国語のために学校文集のようなねちっこい作文学習は捨てられるべきだったか――。

【最後に残る問題】

 最後に残るのは「保護者の経費負担削減」の問題です。
 そこでオバちゃんに聞きます。
「学校文集って、それ、いくらかかるの?」
 電話の向こうでオバちゃんが大声でお嫁さんに尋ねる声が聞こえ、それから私に返事があります。
「700円だって」
「そうだよね、高いよね。先生たちも毎年買って、少しでも単価を下げようとしてるんだけどどうしてもそうなる。
 一軒で小学生が二人いれば“二冊分1400円お支払いください”と言って保護者に激怒される学校もあれば逆に、“一家に何人にいても700円でいいですよ”と言って他の家から“人数で割れば単価も下がるのに、なんであの家の兄弟分まで私たちが払わなければならないの”と怒られる例もある。
 いずれにしろ“無償”である義務教育に一銭も払いたくないという人はたくさんいるし、実際に貧しくて1円の出費も惜しいという家だってある。子どもの貧困って聞いたことあるよね」

 学校を批判する仕事をする人は世の中にいくらでもいるので、一応学校側に立ってなだめるつもりで話しましたが、話している私自身、最後まですっきりしない話ではありました。オバちゃんに対する答えになったとも思いません。

以上、「答えのない問い」に対する「答えにならない答え」でした。

追記
 いま突然気づいたのですが、小学校英語をはじめ、思いつくありったけの負担を被せてから「これ以上教師の負担を増やすな」と教師の働き方改革を言い出すって、定価を上げてから大幅値引きする詐欺商法と一緒じゃないか!

  ホントに汚ねーな!!